2019年08月25日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第10回「ヨハネの黙示録2章4〜5節
(15/7/26)(その2)


 ということは、教会に新たな事件があった、ということではなく、教会が困
難を乗り越えた後、精神の、信仰のゆるみがあった、ということなのではない
か、と考えられるのです。
 「精神の、信仰のゆるみ」とは何なのか。それを明らかにするために、5節
も併せて見ていくことといたしましょう。
 「だから、どこから落ちたかを思いだし、悔い改めて初めのころの行いにた
ち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところへ行って、あなたの
燭台をその場所から取りのけてしまおう。」
 5節では、「(離れてしまった)初めの頃の愛」が、「初めのころの行い」
と言い換えられている。エフェソ教会が失ったものは、「初めの頃の熱心さ」
だったのです。
 この「(エフェソ教会が失ったとされる)愛」は、神への愛なのか、隣人愛
なのか、長い間論争が行われてきました。しかし、これは無意味な論争です。
なぜなら、マルコ12:28以下にあるごとく、教会においては、神への愛は隣人愛
において結実するし、本当の隣人愛は、神への愛なしには成り立たないからで
す。結局、ざっくばらんに言うと、エフェソ教会の人々は、熱心に礼拝を守り、
奉仕をすることに疲れを覚えていたのです。
 なぜでしょうか。それは、これは皆様もお分かりのとおり、エフェソ教会の
人々は、(多分)長年にわたる、厳しい教師同士の対立の問題に取り組み、し
かも解決にまで至らせるために、大変なエネルギーを使い果たしたからです。
 エフェソ教会以上に厳しい戦いを戦った元住吉教会も疲れ果てております。
少なくとも私は、大病を患った後の者のごとくです。今更、「昔の愛を取り戻
せ」などと言われたとしても、「それは私には無理です」とか言いようがあり
ません。
 しかし、イエス様は、繰り返しになりますが、「だから、どこから落ちたか
を思いだし、悔い改めて初めのころの行いにたち戻れ。もし悔い改めなければ、
わたしはあなたのところへ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてし
まおう。」という。今の私には、「勝手にしてください」としか言いようがな
いのですが、イエス様は何を求めておられるのでしょうか。
 私事で大変に恐縮ですが、私はこの度初めての入院体験をさせていただいて、
大変に多くのことを学ぶことができました。
 その中で最大のものは、リハビリの大切さ、ということです。特に整形の場
合には、「切った、貼った」で治療が完結するわけではない。必ず、リハビリ
が治療の一環として組み込まれているわけです。私の場合、治療がなされる前
から、リハビリが始まりまして、若い整体師がやってきまして、リハビリの治
療を始めるわけです。もちろん、カルテはいっているわけですが、最初は丁寧
なカウンセリングから始まる。見ていると、相手次第で、カウンセリングだけ
で時間を費やしてしまうこともある。
 そうやって痛みの原因を特定し、ここが大事なところですが、決して無理を
することなく、ほぐしていく。そうして初めて、傷口ふさぎましたよ、だけで
なく、少しでも社会復帰できる体に変えられていくのです。
 教会が教師同士の争いを経てしかも崩壊、倒壊寸前まで来た、ということは、
瀕死の重傷を負ったようなものです。しかも、長年にわたるボデーブローです
から。
 「はい、問題解決しましたよ。明日から、もとのようにしてください」と言
われたってそうはいきません。長期にわたる、「決して無理をしないリハビリ」
が必要です。イエス様の言われる「想起」「悔い改め」「実行」は、このリハ
ビリのプロセスを言っています。
 私は、今回、リハビリを省略してさっさと帰ってきてしまいましたが、教会
はきちんと時間をかけてリハビリをして、社会復帰をはたしましょう。

(この項、完)



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