2019年08月18日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第10回「ヨハネの黙示録2章4〜5節
(15/7/26)(その1)


 先週からエフェソの教会宛の手紙が始まりました。どのような手紙だったの
か、そこのところだけ振り返っておきましょう。
 エフェソの教会が、使徒パウロの宣教の時代はともかく、黙示録の時代にど
のような状況にあったのか、実は正確なところはわかっていません。
 しかし、ヘイスティングスらの研究によれば、70年のエルサレム陥落以降、
エルサレム教会は消滅してしまいましたから、エフェソ教会が、東方における
クリスチャン信仰の中心、最重要教会に成った、とも言われています。
 ということは、ユダヤ教化した教師や、グノーシスに影響された教師たちに
よって、エフェソ教会は絶えず分派活動に脅かされていた、とも言えます。
 キリスト教会のリーダーとしての使命感と同時に苦悩も抱えていたわけであ
ります。
 そこで、エフェソ教会においては、教師同士の争いがあったのです。何が理
由で、どのような対立があったか、は全くわかりません。ただし、他宗教など
との対立ではなく、あくまでも、教会内部の対立であったことは確かです。
 その時、エフェソ教会の人々はどうしたか、ことを隠さず、嘘を隠ぺいせず
「また、あなたが悪者どもに我慢できず、自ら使徒と称して実はそうではない
者どもを調べ、彼らのうそを見抜いたことも知っている。」
 つまり、エフェソ教会は彼らを徹底的に調べ上げ、判断し、彼らを「偽教師
(「偽」とは、キリストに反する者との意味です)」として放逐した、そのこ
とがイエスに褒められているのです。
 これは、前回も申しあげたように、大変困難な仕事です。しかし、彼ら、エ
フェソ教会の人々は、ディダケーという生活綱領を頼りにこの事業を成し遂げ、
イエスのおほめに与った。つまり、この時代を生き延びて、宣教活動を絶やす
ことなく、継続することができたのです。
 エフェソ教会と同じ、びっくりするくらい似た困難に直面し、しかも対策を
間違った元住吉教会が崩壊寸前にまで陥ったのと比し、本当に立派なものです。
教会は、聖書と歴史に学ばねばなりませんし、学習しない者は、「味のなく
なった塩」のごとくに捨てられるのです。
 ま、そんな元住吉教会でも何とか今あるのは、100パーセント、神の憐れみ
によるものでありますし、私たちは、その憐れみに応えることにのみ、生き
残る道が開かれている、と思います。
 さて、そんな立派なエフェソ教会なのですが、イエス様からいたしますと、
お叱り事がある、と言うのです。

4〜5節「しかし、あなたがたに言うべきことがある。あなたは初めのころの
愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたかを思いだし、悔い改めて初
めのころの行いにたち戻れ。もし悔い改めなければ、わたしはあなたのところ
へ行って、あなたの燭台をその場所から取りのけてしまおう。」
「しかし、あなたがたに言うべきことがある。」

 これからいったい何を言われるのだろう、と恐怖を掻き立てられるような荘
重な言い回しで、新約聖書のどこかに同じ言い方があるのではないか、と思わ
れるかもしれませんが、ありません。しいて言うなら、マタイ5:23、マルコ
11:25でして、「あなた、大事なこと何か忘れていない?」といった意味合い
です。イエス様にこう言われても、ぞっとしますよね。
 さて、エフェソ教会の忘れものとはなにでしょうか。それは「エフェソ教会
が初めのころの愛から離れてしまった。」とのご指摘でした。なんと厳しいご
指摘なのでしょうか。しかし、その意味するところはいったい何なのでしょう
か。
 文字通りの厳しいご指摘である、と受け取る人もいます。「初めのころの愛
から離れた(5節では「落ちた(原文のニュアンスは「倒れた」)」ともっと
きつい言葉で言われている)」というと、アダムとエバの堕罪、つまり、失楽
園を連想させます。教会内の困難な問題を乗り越えた教会が、ほっとしてし
まって、スキャンダルを起こしてしまった、ということだってあり得ないこと
ではない。しかし、ここには「禁断の木の実」をにおわせるものはありません。
あれば、イエス様はただではおかないはずです。

(この項、続く)



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