2019年08月11日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第9回「ヨハネの黙示録2章1〜3節
(15/7/12)(その2)

(承前)

「わたしは、あなたの行いと労苦と忍耐を知っており」は、「クリスチャンと
してよくやっている(ご苦労様)」という程度の意味の「決まり文句」であり、
特別の意味はありません。問題は、その次の「あなたが悪者どもに我慢できず、
自ら使徒と称して実はそうでない者どもを調べ、彼らのうそを見抜いた」です。
一体、エフェソ教会に何が起こった、というのでしょうか。
 「悪者ども」と書かれてはいますが、一般的な犯罪者ではなく、教師同士の、
特に、教師の資格を巡っての争いであったことが窺われます。
 しかしそれでは、それはどのような争いだったのでしょうか。ユダヤ教です
とか、他宗教との対立という問題ではなさそうですので、教義の理解ですとか、
宣教の方法論と言った、福音の理解に関わる問題であった、と考えられます。
初代教会からして、既に現代の教会が抱えている問題をかかえていたのです。
 どの点について、いかなる対立があったかについて、後追いすることは不可
能ですので、その対立について、エフェソ教会はそれをいかにして克服したか、
そこが問題です。
 「我慢できず」、「調べ」、「うそを見抜いた」。
エフェソ教会は彼らを徹底的に調べ上げ、判断し、彼らを「偽教師(「偽」と
は、キリストに反する者との意味です)」として放逐したのです。
 教会内の争いについて、「我慢して」「調べることをせず」「ウソと分かって
いても目をつぶる」、これが正しいやり方だ、と思っていらっしゃる方もいらっ
しゃるかもしれません。
 しかし、「裁き主」イエスの言われるところはそうではない。調べ上げて放
逐せよ、とご指示なさるのです。
 しかし、教会にとって不寛容を貫くことは実は困難な課題です。一方で教会
員は高慢と独善にならないように、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心
を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し…(エフェソ4:2)」と勧められています。
どうして一見矛盾するように見える困難な課題をなしとげることができるので
しょうか。
 そのためには、「好き」だとか、「嫌い」だとか、そういう自分勝手な判断
ではなく、基準が必要です。当時の教会は、「ディダケー」という客観的な
「生活基準」を尊重し、それに基づいて判断をしていたのです。
 こうして、エフェソの教会は、迫害の時代、黙示録の時代にあっても、キリ
ストの道からそれることなく、生き残ることができたのです。
 さて、ここまで聞いてこられた皆様には、一つの疑問、一つの感想がわき上
がって来られたのではないでしょうか。
 疑問としては迫害の影が、影すらも見えないことです。
これについては、今後の他の教会の事例においてもそうであるように、迫害は
内紛を産み、道を見失い、そして自己崩壊へとつながる、ということです。
 しかしその上で、エフェソ教会の悩みがもう一つピンとこない、とお感じの
方も多いのではないでしょうか。が、エフェソ教会が問われた問題は、拠点教
会であったから問われた、のではなく、どの教会も抱えておる問題であり、つ
まり、どの教会の内紛も、結局は黙示録的問題であることには変わりないので
す。
 わたしたちの教会も、ここ15年以上、内紛に苦しんできました。そして、そ
の内紛で問題となった問題点の一つは、教師の資格問題でありました。元住吉
教会は、教師の資格のない人に、揺さぶられてきたのです。
 その根本原因がどこにあるか、と言えば、実は教会自身にあったのではない
でしょうか。当時の牧師たちは、教会の歩みが正しくあるための基準であると
ころの教憲教規について無知でした。というより軽視していました。それゆえ、
教師の資格にない方に平気で教師の仕事をさせてしまいました。私自身も教憲
教規についてその重みが十分に分かっていた、とは言えません。
 小さな過ちは、間違った「寛容」によって大きな綻びとなり、元住吉教会は
寸でのところで崩壊するところでした。今日のこの礼拝も守れていない所でし
た。エフェソの教会のように生き残ることはできないところでした。
 しかし、今、主の憐れみによって、かろうじて生き延びてくることができま
した。私たちはそのことを感謝しつつ、過去の過ちを繰り返さないように、教
会としての使命を果たし続けることを誓いたいものです。

(この項、完)



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