2019年07月28日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第8回「ヨハネの黙示録1章17〜20節
(15/7/5)(その2)
(承前)

 「決まり文句」黙示文学、著者が確かに神の幻を見た、というしるしなのです。
そして、気絶したままでは、文学になりませんから、「恐れるな。」も決まり
文句。これで、安心して神の言葉を聞けるのです。著者は、ここで「これは黙
示文学だ」と主張している、という訳なのです。
 さて、こうしてやっとイエスの発言ですが、最初の言葉は「私は最初の者に
して最後の者」でした。これは、1:8に、黙示録全体のまとめのところにあった
「わたしはアルファであり、オメガである」と同じ意味です。私は神である、
なぜなら永遠であるから、という意味です。永遠はどの宗教でも聖なる者のし
るしです。
 イザヤ書44:6でも「私は最初の者にして最後の者」とは、神の自己表示で
した。
 しかし、どうして、イエスが神であり、永遠なのでしょうか。
それが18節に示されます。今日のテキストの中で、実は18節が最も大切な箇所
です。

「また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死
と陰府の鍵を持っている。」

 「生きている者である。」は、普通は「神の自己表示」としては用いられま
せん。私たちだって生きているからです。神の自己表示として用いられている
のは黙示録のみです。しかし、ここで言う「生きている」には、永遠に生きる、
という特別の意味がある、のです。
 私たちだって生きている者であるのに、永遠ではない、のはなぜでしょうか。
それは、死によって人生が断ち切られるからです。そこですべて終わりです。
 ところが、イエスは、死んで陰府に降られましたが、よみがえられて、永遠
の命を与えられました。この出来事を通して、イエスは永遠に生きる者となら
れたのです。だから、イエスの場合、「生きている者である。」が、神の自己
表示となるのです。丁寧に言えば、「世々限りなく生きて」いる方ということ
に成るのです。
 そして、そのイエスが「死と陰府の鍵を持っている」というのです。これは
一体どういう意味なのでしょうか。
 陰府と訳されている語の原語は「ハデス」です。「ハデス」は、地獄ではな
く、前にお話ししたことがあるように、死んだ方が、一時止まられるところで
す。普通は、帰還可能なところではない。しかし、イエスはその鍵を持ってい
らっしゃるがゆえに、その中に入って、一人一人を引き上げてくださる、とい
うことは、ざっくばらんに言えば、天国へ連れていって下さる、ということな
のです。
 これは、旧約聖書にも、他宗教にもないメッセージです。よみがえりのイエ
スにおいて初めて実現した出来事でした。なんと素晴らしいことでしょうか。
 しかし、イエスが陰府に入られて、そこにいる魂を救う、という思想は、ペ
トロT3:18〜22にしか見られないメッセージです。なぜ、そのような新しい
メッセージがここで語られているのでしょうか。
 その理由は、これから黙示録で詳しく語られることとなりますが、概略だけ
申し上げると、それは、今、迫害という苦難に遭っている教会に慰めと励まし
を与えるためだ、と言えるか、と思われます。
 教会はペンテコステの出来事以来、イエスの福音を先頭に立って宣べ伝えて
きました。もちろん、祝福もたくさんいただきました。多くの仲間が加えられ
ました。しかし、今の事態は何でしょうか。イエスを信じているにも関わらず、
いや信じているがゆえに、教会は、たくさんの苦難に遭いました。その苦難の
中でもう死んだ者もたくさんおります。残った者にも死の危機が迫っています。
イエスを信じさえしなければ、こんな目に合わなかったのに、一体どうしてく
ださるのですか、とのつぶやきも聞こえます。
 ここで出てきたイエスは、この問いに答えてくださったのです。
迫害で死者は出るでしょう。あるいは、日本のキリシタン迫害のように、教会
自体がつぶされて、なくなってしまうかも知れない。しかし、死んだ者にも、
死んだ者にこそ、天国への道が開かれている、というのです。目の前で迫害者
がえいやーとやっつけられる奇跡が語られているわけではありません。しかし、
被迫害者、苦難に遭う者こそ、最も神の国に近いものである、というメッセー
ジは、信じる者にとっては、大いなる慰め、励ましとなったのではないでしょ
うか。そして、そればかりでなく、教会はなんとかかんとか現代まで命脈を
保っているのです。
 この書は、迫害と存亡の危機に立っている教会にこそ真っ先にに伝えられね
ばなりません。

(この項、完)




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