2019年07月21日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第8回「ヨハネの黙示録1章17〜20節
(15/7/5)(その1)

 前回の振り返りから始めていくことといたしましょう。
しばらくは何べんも繰り返すこととなると思われますが、ヨハネの黙示録の性
格、この書はいったい何なのか、はきちんと押さえておかねばなりません。
 このヨハネの黙示録の著者であるヨハネは、エーゲ海の小島、パトモスにい
ました。迫害によって流されて、あるいは迫害を逃れてこの島にいたのです。
 おそらく、不安におののいていた。ないしは、不安が重くのしかかっていた
ことと思います。
 さて、そんなある日、それは、「主の日」でした。「主の日」とは、日曜日
です。「主の日」に礼拝を守っていたときに、ヨハネが“霊”に満たされてい
ると、「後ろの方でラッパのように響く大声」が聞こえ、「あなたの見ている
ことを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サル
ディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会に送りなさい。」と言
われたのです。
 これが、黙示録全体が書かれた所以、きっかけでもあったのですが、前回は、
そのお方のお姿の描写でした。
 13節によれば、その方は、「人の子のような方」でした。「人の子のような
方」とは何者なのでしょうか。私たちクリスチャンは、単純にイエス様のこと
だ、と考えてしまいますが、そう簡単ではありません。
 12節〜15節は、ダニエル書10:5〜6の表現を下敷きにしていることが分かる
のですが、そこで言われている「人の子」とは、実は大天使ガブリエルだった
のです。また、ユダヤ教の黙示文学では、「人の子のような者」とは天使のこ
とでした(第1エノク書など)。
 が、16節に出てくる象徴表現によって、この方がイエスであらせられること
が分かるのです。
 16節「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭いもろ刃の剣が出て、顔は強く
照り輝く太陽のようであった。」
 7つの星を持っている、これは7つの教会を神の保護のもとにおいている、と
いうことです。
 口からは鋭いもろ刃の剣が出て、は剣は明らかに裁きの意味で、もろ刃の剣
は「厳しい裁き」のしるしです。それが「口から出ている」言葉によってなさ
れる、という意味です。神の言葉には、救い、慰めと同時にそれだけの鋭さが
ある、ということです
 最後に顔が太陽のごとく、ですが、世界、宇宙全体を支配しておられるとい
うことを言っているのでしょう。
 支配者にして、裁き主、しかも教会を保護のもとにおいていてくださるイエ
スの幻を、ヨハネは見たのです。
そして、今日は、そのイエスがおっしゃったことということになります。
 実は、1節〜8節までの間でも、イエスがおっしゃられた言葉はあるのです
が、あそこは黙示録全体の要約でしたので、本当に、(幻の中で、ですけれど
も、)イエスがご発言なさるのは、ここが最初です。何を言われるのでしょう
か。

17〜20節「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだように
なった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。『恐れるな。
私は最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見
よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている。さあ、見たことを今あ
ることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。あなたは、わたしの右
の手に七つの星と、七つの金の燭台とを見たが、それらの秘められた意味はこ
うだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。』」

 イエスの発言の前に、「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、
死んだようになった。」という出来事が起こります。「こりゃなんや」と思わ
れた方も多いことと思いますが、これは、「聖なるもの」と出会ったときの人
間の一般的反応です。日本でもそう。大体、神にあったときの「おそれ」は
「畏」という別の字が用意されているくらいです。
 旧約聖書でもこの考え方がありまして、日本よりも強くありまして、出エジ
プト記33:20では、シナイ山で神に出会ったモーセに神が「あなたはわたしの
顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできない
からである」と言っておられます。よって、黙示文学においては、黙示文学と
いうのは、「神に出会ってこういう幻をいただきました」という文学ですが、
必ずこの場面が出てくるのです。

(この項、続く)



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