2019年07月14日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第7回「ヨハネの黙示録1章12〜16節
(15/6/21)(その2)
(承前)

 明らかに、この方は、終末のメシヤであり、旧約ではまだはっきり特定はし
ていませんが、キリスト教では、この方こそイエスである、と捉えました。す
なわち、クリスチャンの間では、「人の子のような方」は、イエスのことなの
です。そして、イエス御自身も、御自身のことを「人の子」として再臨される
ことを予告されたのです。
 なお、「ような」は、「似ている」の意味ではなく、黙示文学では、幻を見
た者が、「恐れ多い」思いを表現する言葉でしかありません。
 ところが、「人の子のような者」はイエスではないかもしれないのです。
13節のb〜15節まで、「人の子のような方」の衣、帯、頭、髪の毛、目、足声」
についての表現が出てきますが、これは、微妙に違うところがあるとは言え、
明らかにダニエル書10:5〜6の表現を下敷きにしていることが分かるのです。
 すなわち「一人の人が麻の衣を着、純金の帯を腰に締めて立っていた。体は
宝石のようで、顔は稲妻のよう、目は松明の炎のようで、腕と足は磨かれた青
銅のよう、話す声は大群衆のようであった。」です。
 違うところは、「麻の衣」が「足まで届く衣」、「純金の帯を腰に締めて」
が「胸には金の帯を締めて」、からだと顔の描写の代わりに、頭と頭髪の描写
があり、「磨かれた青銅のよう」が、腕の描写が省略されたうえで「炉で精錬
されたしんちゅうのよう」となり、その声が「大群衆のようであった」が「大
水のとどろきのよう」に替えられていることだけです。
 これらの違いは、たとえが替えられているだけのことで、意味に変化はあり
ません。13節のb〜15節まで、周りっくどい表現で言われている方は、実はダ
ニエル書10:5〜6で言われている方と同一のかたということになるのです。
 そして、ダニエル書10:5〜6で登場する方は、実は大天使ガブリエルだった
のです。また、ユダヤ教の黙示文学では、「人の子のような者」とは天使のこ
とでした(第1エノク書など)。
 さてさて、それでは、ここでヨハネに(もちろん幻の中でですが)現れられ
たのは、天使だったのか、イエスだったのか、どちらだったのでしょうか、と
いうところで、16節にまいります。
 16節「右の手に七つの星を持ち、口からは鋭いもろ刃の剣が出て、顔は強く
照り輝く太陽のようであった。」
 この16節の記述の下敷きになったと考えられる旧約聖書の記述はありません。
ということは、この16節だけは、キリスト教独自の考え方が象徴的に表現され
ている、と考えていい、といことです。
 ということで期待感をもって、見てまいりますと、まず、順序は2番目です
が、「口からは鋭いもろ刃の剣が出て」という表現に私たちは度肝を抜かれま
す。古代以来、多くの画家が、ここを絵で描くとしたら、というところで大変
に苦労した部分です。考えただけでぞっとしますよね。
 ここは、そういう想像をしてはいけないので、剣は明らかに裁きの意味で、
もろ刃の剣は「厳しい裁き」のしるしですが、それが「口から出ている」言葉
によってなされる、というキリスト教の考え方を表わしています。
 神の言葉には、救い、慰めと同時にそれだけの鋭さがある、ということです
ね。畏れをもって受け止めたい、と思います。
 更に、7つの星を持っている、これも全くイメージしにくいですが、これは
単純に7つの教会のことをさしている、と考えていいのではないでしょうか。
教会は神の保護のもとにあるのです。
 最後に顔が太陽のごとく、となると、もう想像の域を脱します。顔が7000℃
なんて…ですが、支配しておられるという抽象的なことを言っているのでしょう。
 こうして、この最後の16節の象徴表現によって、その姿ではなく、なされる
業により、私たちはこの「人の子のような方」がイエスである、と特定できる
のではないでしょうか。
 イエスは裁きをもって再臨されますが、その裁きは神の言葉によりなされま
す。しかし、教会は、そのイエスによって守られ、そしてご自身は、太陽のご
とく、この世全体の支配者として君臨しておられるのです。
 わたしたちが何を畏れるべきか、何を恐れてはいけないか、を考えることが
求められる箇所である、と思います。

(この項、完)



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