2019年06月30日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第6回「ヨハネの黙示録1章9〜11節
(15/6/7)(その2)
(承前)
一方、「共にイエスと結ばれて」が「苦難、支配、忍耐」全部にかかるとす
る解釈によれば、「苦難」はイエスを信じることによってだれでもが受ける苦
難。それにもかかわらず、世界の真の支配者はイエスであることを覚えて、
「忍耐」している者こそ「仲間」ということになります。今、キリスト教信仰
を保っている者すべて、ということになります。
さあ、どっちでしょう。
実は、伝統的には、第一の、先の解釈。そして最近は後の解釈を受け入れる人
が多いのですが、私は、先の解釈をよい、と思い、私自身はそれを受け入れて
います。
なぜなら、黙示録は、あくまでも、迫害に遭っている者に、主の慰めが用意
されていることを伝える書である、と私は受け止めているからです。
こうして、著者と(あなたがた)とは、共に患難、迫害に与る仲間というこ
とになるのです。
ついでですが、もう初出ではありませんが、著者の名は「ヨハネ」でした。
「ヨハネ」というと、「ヨハネによる福音書」や「ヨハネの手紙一」「同、二」
「同、三」の著者との関連が連想されますが、まず関係なさそうです。「ヨハ
ネ」はどこにでもある名前だったのでしょう。
で、彼は「神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた」
のでした。
ここも解釈の別れるところです。
そもそもは、ヨハネの黙示録のギリシア語があいまい、ないしはへたくそであ
ることから起こることなのですが、ここは、「神の言葉とイエスの証しのため
に」と解釈されてきました。そうすると、宣教活動に従事しつつも、ヨハネ自
身は迫害されていないこととなります。だとすると、「著者と(あなたがた)
とは、共に患難、迫害に与る仲間であった」という前の文で言われていること
と違いますね。
それで、今では、新共同訳もそうですが、「のゆえに」と訳すようになった
のです。
パトモス島は、エーゲ海に浮かぶ小島ですが、伝承によれば、流刑地だった
とも言われています。しかし、「そうではない」とする研究もあり、分かりま
せん。いずれにせよ、ヨハネは、迫害を逃れてか、ひょっとしたら迫害のため
に捕らえられて、流されてパトモス島にいたのです。肉体的にも、精神的にも
厳しい状況におかれていた、ということです。
これもついでですが、「イエスの証し」とは「イエスのゆえの殉教」を意味
するということは既に申し上げたとおりです。
しかし、その中で彼は、「幻」を見ました。
10〜11節「ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方
でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見てい
ることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サ
ルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの7つの教会に送れ。』」
この「幻」の中で現れたお方がどなたであるか、ということはもう少し後で
確定することができるか、と思われますが、「主の日」に、「“霊”に満たさ
れて」、「ラッパのように響く大声」を聞いた、ということで、それが神から
の「使者」であることは明らかです。
「主の日」とは、日曜日のことで、新約聖書では唯一の用例なのですが、黙
示録が書かれた時代になると、主日礼拝が日曜日に行われていたことがここか
ら分かるところです。
いずれにせよ、日曜日の主日礼拝において、聖霊に満たされていたときに、
その出来事が起こりました。
「ラッパのように響く大声」はエゼキエル書3:12の連想である、と考えら
れていて、私も異論はありません。どんなラッパでしょうか。
いずれにせよ、これらのしるしから、その声の主が、「神から来られた方」
であることをヨハネは察知したのです。どんなにか、驚いたことでしょうか。
しかし、告知の内容は彼自身のためだけのものではありませんでした。「見
ていることを巻物に書いて、…7つの教会に送れ」という訳です。未だ、見て
いることの詳細は分かりません。しかし、これら7つの教会がヨハネと同じ、
あるいは接点のある状況に置かれていることは確かです。
ここで、ヨハネと「あなたがた」との連帯が生まれます。
どんな患難、迫害の中においても、主は、主の日の礼拝において、必要な物を
用意していてくださることを信じて、歩んでまいりましょう。
(この項、完)
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