2019年06月23日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第6回「ヨハネの黙示録1章9〜11節
(15/6/7)(その1)

 前回のところはとてもむつかしいところでした。何しろ、全能者にして、創
造主なる神が突然姿をお顕しになられてしまったのですから。だとすると、そ
れは既に世の終わりであって、黙示録も、いや世界も、1章の8節でお仕舞、
ということになってしまうはずでした。
 ところが、黙示録も、そしてこの世界もまだ続いている、ということは、
1章の8節で触れられている御臨在は実は予告であって、そのものはまだだ、
ということです。
 そう、ヨハネの黙示録1章1〜8節は、序文、ヨハネの黙示録の要約でして、
この神の御臨在は、ヨハネの黙示録の最後でもう一度触れられ、ヨハネの黙示
録22:13、そして、読者は、実際に神がそのように来られるのを待つ、という
構造になっているのです。
 さて、こうしてヨハネの黙示録のあらすじが分かったところで、改めて、ヨ
ハネの黙示録は、事の顛末を最初から述べてまいります。ゆえに、私たちは、
改めて、序文で書かれていたことを確認してまいりましょう。
 9〜11節「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、そ
の苦難、支配、忍耐に与っているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエス
の証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは
“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。そ
の声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミ
ルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディ
キアの7つの教会に送れ。』」
 最初に、著者であるヨハネの自己紹介がなされます。
彼、著者は男性です。まず、「あなたがた」の「兄弟」である、と名乗ります。
「あなたがた」が誰であるか、は後に触れるとして、「兄弟」とはどういう意
味でしょうか。それは、本来は、もちろん「血のつながった」兄弟、という意
味ではなく、「同じ宗教の信者」という意味です。
 しかし、ここで、著者が自分は「キリスト教徒」、クリスチャンであるとし
て、自分を「(あなたがたの)兄弟」と呼んでいるか、というとそう単純では
ありません。
 パウロの場合も、パウロの場合はよく「呼びかけ」に「兄弟」という語を用
いましたが、必ずしも「キリスト教徒」に対してだけではありませんでした。
しばしばユダヤ教徒に対して「兄弟」と呼びかけていました。(たとえば特に
使徒言行録22:1、23:1など)それは、パウロが、ユダヤ教徒を異教徒とは見
ず、同じ神の恵みに与った者として、やがては、一つとなるべき相手として見
ていることを表わしています。(ローマの信徒への手紙11章)
 それでは、黙示録の著者は、なぜ自分を(あなたがた)の「兄弟」である、
と呼んでいるのか?それは、黙示録の中の「兄弟」という語のわずか3つの用
例、ここと19:10、22:10を照らし合わせた上で、その次の句、「共にイエスと
結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っている」と切り離せないことが分かる
のです。ヨハネにとって、「兄弟」とは、ただクリスチャンであるだけではな
く、その上で「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っている」
人に限定されているのです。
 それでは、「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐に与っている」
人とはどういう人でしょうか。
 なんとなくわかる気がすることはするのですが、概念を正確にしておきま
しょう。
 実はここには2つの解釈、翻訳があるのです。
一つは「共にイエスと結ばれて」が「忍耐」だけにかかる、とする解釈、もう
一つは、いまの新共同訳もそうですし、協会訳もそうですが、「苦難、支配、
忍耐」全部にかかるとする解釈です。文法的にはどちらも可能です。
 どうでもいい、と思われるかもしれませんが、意味は微妙に違ってきます。
最初の解釈、「共にイエスと結ばれて」が「忍耐」だけにかかる、とする解釈、
によれば、「苦難」、この場合は「患難」つまり「迫害」と訳した方がよいと
思いますが、それは、終末の時、義人が必ず体験する「患難」です。なぜなら、
終末の時、悪の力も最大限に大きくなるからです。しかし、それを乗り越えた
時、この「支配」という訳も、この解釈の時は「王国」と訳した方がよい、神
の国に入れられる。そして、そこで、イエスによる「忍耐」、これも「慰め」
という訳が適切です、が与えられる、こういう意味になります。先のことでは
ありますが、迫害を受けイエスによる慰めにまで至る仲間が「兄弟」なのです。

(この項、続く)



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