2019年06月16日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第5回「ヨハネの黙示録1章8節」
(15/5/31)(その2)
(承前)
さて、その後のところは、ユダヤ教徒とキリスト教徒で見解が分かれるので
すが、キリスト教徒は、神が、この人類の、人類全体、ですよ、罪の有様を見
ておれなくなって、人の形をとって、いや人そのものとして、御子イエス・キ
リストをお遣わしになられ、罪の贖いをされた、と受け止めているのでありま
す。
これが、つまりイエス・キリストが、キリスト教徒にとっては、第二の神顕
現です。ユダヤ教徒は、イエス・キリストを神顕現とは認めず、ただの預言者
と見ていますので、ここで見解が分かれるのですが、ヨハネの黙示録の著者は、
ここですでに、黙示録1章8節で、第三の、ユダヤ教徒にとっては、第二の神
顕現を体験してしまったのです。
いや、こんなに恐ろしい場面だ、とは思わなかった!
しかし、そんなことうそっべ、と思う方もいらっしゃるとおもいますので、こ
こが「神顕現」の場面であることを証明してまいりましょう。
ここでいきなり登場してきて語られた方が神であられることを、3つのこと
が、証明しています。
まず、「わたしは…である」というおっしゃられ方自体が、神顕現のしるし
だ、ということです。
この話は既にしたことがあるので、説教をきちんと聞いていらした方は、
「あっあれか」と思っていただかないといけないのですが、「エゴー・エイ
ミー」図式と言われるものです。英語で言うと「I am」で、これだけでは何
の意味も持たないのですが、神が顕現されるとき、そうおっしゃるのです。こ
れだけで「わたしは神だ」という意味なのです。
第一の顕現、神がモーセに顕れられたとき、神は「わたしはある」というも
のだ、とおっしゃいました(出エジプト記3:14)。モーセは、「なんやこいつ」
と思ったかもしれませんが、これが神顕現だったのです。
第二の顕現は、ユダヤ教とキリスト教で見解が分かれる所なのですが、その
見解の違いを露骨に示しているのがヨハネによる福音書なので、ヨハネによる
福音書を見るとよく分かるのですが、ヨハネによる福音書を見ると、イエスが、
「わたしは…である」と度々言っている。
これは、イエスが「自分は神だ」とはっきり言っているところなのです。そ
れで、逆にユダヤ教徒は、イエスに恐ろしく反発したのです。
第二の顕現へ見解の相違はさておいて、この第三の(ユダヤ教徒にとっては
第二の)神顕現において、ここにとつぜんでてきたオッチャンは『わたしはア
ルファであり、オメガである。』と言った。まず、自分が神であることを宣言
したのです。
これはえらいこっちゃ。神さんが来なはったとしたら、裁きやろか、救いや
ろか、次にそれが問題となります。
第二に、この方は、「アルファであり、オメガである」とのたもうた。これ
はいったいどういう意味だっしゃろか。
これは、ギリシアのことわざのようにも思われますが、そうではないようで
す。プラトンも、神のことを「初めにして終わり」とは言っているが、「アル
ファであり、オメガである」といったきざなことは言っていない。むしろ、ユ
ダヤ教の文献に遡れるようです。後期ユダヤ教においては、「ヘブライ語」の
アルファベットの最初の文字と最後の文字をくっつけて「エース」といい、あ
るいはその間にヘブライ語のアルファベットのちょうど真ん中の文字を入れて
「エメス」と言って、「始めであり、終わりである」という意味を表わしてい
た。それをもじったようです。神さんも粋なことしなはる。
で、「始めであり、終わりである」とはどういうことであるか、ということ
ですが、「始め」は創造です。「終わり」は裁きです。つまり、神は片方だけ
の神ではない。造る神であり、壊される神でもあり、両方である。
なんとなく、救いも見えてきた気がいたします。
そして第三に突然出てきた「お方」を著者は、「神である主、今おられ、かつ
ておられ、やがて来られる方、全能者」と呼んでいます。
旧約は違いますが、新約では、主とお呼びするのは、もっぱらイエス・キリ
ストです。それがここでは、この節に限っては一切出てこない。語られる方は、
あくまでも神なのです。つまり、キリスト教においては、三位一体の神ではあ
るのだが、ここでは、あくまでも「創造の神」に特化されているのです。
そうしますと、私たちは、第二(ユダヤ教)、第三(キリスト教)の神顕現にお
いては、最終的に、(再)創造の業がなされる、と期待してよろしいのではな
いでしょうか。
(この項、完)
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