2019年06月09日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第4回「説教「ヨハネの黙示録1章7節」
(15/5/17)(その3)
(承前)

 この「ために」は、「彼を覚えて嘆き悲しむ」ではありません。文法的には、
破格に見えるかもしれませんが、彼からの「報復」を恐れて、自分のことを嘆
き悲しむのです。
 ざっくばらんに言えば、再来のキリストは、仕返しをしに来られるのです。
ユダヤ教の場合と違って、「自分たちだけは、神の裁きから免れられる」と
いった甘い考えはキリスト教の場合にはありません。
 厳しい考え方のように思われるかもしれません。しかし、こそこそ隠して自
分をだまし続ける不誠実な生き方を、大変な努力を払ってし続けるよりも、神
の前にすべてをさらして、文字通り、首を洗って待っている方が、そこに本当
の救いへの道が開かれるのではないでしょうか。
まともなキリスト教は、この終末論を大切な教えとして、持ち続けております。

(この項、完)


第5回「ヨハネの黙示録1章8節」
(15/5/31)(その1)

8節「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこ
う言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」

 いつものように、前回の振り返りからまいりましょう。
そもそも黙示録は、「終わりの日」の出来事を示すために書かれた書です。
 よって、かなりもったいぶって、終わりのころになって、ちらっと見せて、
「後は秘密」などという終わり方が想像されます。
 ところが、もう最初から、1章の7節なのに、「終わりの日」の出来事が示
されてしまった、というのが、前回のところでした。
 もっとも、「終わりの日」の出来事を示すと言っても、それは新約聖書に始
まったことではないので、旧約聖書の時代に、ダニエル書やゼカリヤ書ですで
に示されていました。そこでは、「人の子のような者」の支配と、裁きとが伝
えられていました。
 そして、前回申し上げましたように、ユダヤの歴史は、まさに「終末の日」
そのものとも言えるような出来事、ユダヤ戦争を体験してしまったのです。ま
さに、ユダヤ民族にとっては、裁きそのものとも言える出来事でした。
 しかし、「人の子のような者」が、来られて支配してくれれば、下されば、
「自分たちのような義人」には手を差し伸べてくださるだろう、と言った期待
はいっさい「うらぎられ」ました。ユダヤは、ほとんど壊滅と言ってよい状態、
エルサレムは、完全に壊滅してしまったのです。
 この裁きの厳しさを目の当たりにしたキリスト教徒は、「自分たちだけは救
われる」と言った淡い、そして大変に身勝手な「終末への期待」を一切捨てま
した。
裁きは全ての民に、もちろん、クリスチャンにも及ぶのです。
よって、しからば「救いはどこにあるのですか」という問いをもって、この短
い、短い黙示録は一旦幕を閉じざるを得ません。
 が、もちろん、その完全な答えは、黙示録の終末になって初めて与えられる
ことは見え見えなのですが、その答えも、「わたしはあなたを救うよ」という
メッセージとして、実はすでに与えられてしまっている、というのが今日のと
ころなのです。
 とざっくばらんに言ってしまいましたが、この8節の場面は大変な、説教で
取り上げるのもはばかられる、恐れ多い場面、神顕現の場面なのであります。
 皆さま、神顕現に出会ったことはおありですか。「あり」とおっしゃる方が
いらっしゃったら、私は、「それは100パーセント嘘だ」とはっきり申し上げ
ます。
 創造主なる神は、天地の創造の時は、確かに御自分で仕事をなさいました。
しかし、創造の最後に人を造られ、これに全世界の管理を任されてからは、直
接この世界に関与することは止められたのです。ですから、命の継承という最
も大切な仕事についても、神が直接に命の息を吹き込まれたのは、最初の人ア
ダムとエバだけ。後は、生殖によって命は受け継がれているのです。
 要するに、創造の後は、世界は自然法則に従って営まれているのです。
しかし、その後において、ユダヤ教徒は1回、キリスト教徒は2回、神さまは、
この世界の歴史に介入されたと考えています。
 ユダヤ教徒の考える1回、そして、キリスト教徒が考える2回のうちの1回は、
出エジプトです。両教徒とも、この件に関しては一致していまして、神は、
「選びの民」として選んだイスラエル民族を救うために、モーセを立てて、出
エジプトを敢行させたのです。

(この項、続く)



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