2019年05月26日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第3回「ヨハネの黙示録1章5b〜6節」
(15/5/3)(その3)
(承前)

 ここには、イエス・キリストについて、3つのことが書かれています。
第一は「わたしたちを愛し」です。第二は「御自分の血によって罪から解放し
てくださった」です。そして第三は「わたしたちを王とし、御自身の父である
神に仕える祭司としてくださった」です。
 ここで使われている動詞なのですけれども、日本語に翻訳してしまうと分か
らないのですが、本当に分からないのですが、「愛し」は現在分詞形、「解放
してくださった(日本語にする関係上、敬語表現になっていますが、原文が敬
語なわけではありません)」はアオリスト分詞形、そして、「(王と)し、(祭
司と)してくださった(ここも同じ)」は、アオリストとなっていて、時制がみ
んな異なるのです。
 とっても変な表現なのですが、ちゃんと著者の意図があるのです。
つまり、「方(原文は「彼」)」は、イエス・キリストは、現在も愛していてく
ださる。それは、「自分の血によって私たちを罪から解き放ってくださった」
という過去の事実に具体的に現れている。ここで、「解放する」と訳されてい
る語、「リュオー」には、身請けする、の意味しかありません。実際に代金と
して支払われたのです。
 が、そのことのゆえに、「わたしたち」は、王とされ、祭司とされた、とい
うのです。
 結構な話ですが、オウムとどこが違うのか、まだわかりません。
どこが違うのでしょうか。
皆さま、今日はテキストを5節の真ん中で区切り、ヘンだな、と思われたかも
しれませんが、この三行だけ、主語が変わったのに気づかれましたでしょうか。
 ここだけ「あなたたち」ではなく「わたしたち」なのです。
「あなたたち」と「わたしたち」の違いって何でしょうか。それは、「わたし
たち」がすでに殉教した人なのです。もちろんすでに殉教した人はものを言え
ませんが、著者は代弁して言っているのです。
 なぜ、殉教者のみが「王」となり、「祭司」となりうるのか、それはキリス
トに倣ったから、キリストの後に従ったからです。
 キリスト教の終末論は、やがては自分たちの時代が来る、といった都合のい
い話をしているのではありません。今、死に至る苦難に遭っていることに慰め
が用意されている、との知らせです。
 死に至る苦難であっても、それで終わりではない、と告げているのです。

(この項、完)


第4回「ヨハネの黙示録1章7節」
(15/5/17)(その1)

 4月から、ヨハネの黙示録の講解説教を始めましたが、まだその4回目です。
今までのところでは、だれが何のためにこの書物を書いたのか、そして、そこ
で言われていることの真実性の根拠は何か、ということがテーマでした。いわ
ば、序です。
 前回の説教において、ゆっくりと行きつ戻りつしながら進んでまいりましょう、
と申し上げはしましたが、それでも4回目になりましたので、振り返りは最小
限にしてまいりましょう。
 この書は、たぶんドミティアヌス帝の時代である、と思われますが、迫害に
遭っている教会にあてて、将来起こること、終わりの時にキリストが最終的に
は必ず勝利することを伝えるために書かれたものである、ということです。
 そして、その伝える情報が真実である根拠としては、第一に、それが三位一
体の神によって発せられた情報であること、さらに、血を流して死んでくだ
さったキリストによって伝えられた情報であることが告げられました。
 もうすでに多くの殉教者を出してきたのだ、と思います。
その殉教者たちが、5節後半から6節にのおいては「わたしたち」と呼び掛け
られ、その「わたしたち」のみが、キリストに倣ったがゆえに、キリストの後
に従ったがゆえに、「王」となり、「祭司」となりうるとのメッセージが示さ
れました。それは、最も苦しむ者にとって、大きな慰めとなったに違いありま
せん。
 さて、序はそこまでと致しまして、いよいよ、「将来起こること」の内容に
入ってまいります。
 何が起こるのでしょうか。それは、キリスト教においては、キリストの再臨、
再び来られる出来事なのであります。それが7節に記されています。

7節「見よ。その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が、彼を仰ぎ見る。
ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は、彼のために嘆き悲しむ。
然り。アーメン」

出典は、ダニエル書7:13とゼカリヤ書12:10です。ダニエル書7:13は本日の
旧約書ですが、もう一度読んでみることといたしましょう。

(この項、続く)



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