2019年03月10日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第115回「使徒言行録28章25〜28節」
(15/3/22)(その2)
(承前)

 ユダヤ軍はやっと統一しましたが、多勢に無勢(6万対1万)、5月までには、
第二、第三城壁も突破され、7月下旬には、ユダヤ軍は神殿の中だけに追い詰
められました。8月、ユダヤ軍自らが、神殿の柱廊の北西側に火を放ってしま
います。二日後、ローマ軍も火を放ち、8月中旬から下旬にかけて、至聖所以
外はすべて炎上し、反乱軍は、至聖所に追い詰められてしまいました。ティ
トゥスは、ヨセフスによれば、「至聖所だけは救いたい」との意向を持っていた
とのことですが、指揮官たちが「エルサレムに神殿が立つ限り、ユダヤ人は世
界各地からやって来て、くりかえし反乱を起こすであろう」と口々に言い、つ
いに8月末、至聖所に火が放たれました。
 燃え上がる神殿内は、ローマ兵による殺戮と掠奪の場と化しました。そこに
居合わせた者は、女、子ども、老若の別なく虐殺され、民衆の死者6000人に
上ったとのことです。
 焼け落ちた神殿の跡は、ティトゥスの命令により、かつてそこに神殿があっ
たことなど想像出来ないくらいに破壊し尽くされ、平坦地とされてしまいまし
た。そしてその後、一ヶ月に亘ってエルサレム市内で殺戮と破壊とがずっと継
続され、70年9月26日、エルサレムが完全に陥落した時点で、エルサレムで殺
戮されたユダヤ人の総数は、ヨセフスによれば100万人、タキトゥスによれば
60万人に上ったとのことです。」
 引用は以上ですが、64年に完成したばかりの、あの壮麗なエルサレム神殿は、
わずか6年後に、跡形もなくこの地上から消え去ってしまったのです。それば
かりではありません。ユダヤ教自体も全滅するところでした。ですが、唯一、
ファリサイ派一部にエルサレムを脱出する者がおり、その残りの者によってユ
ダヤ教は存続することができたのです。
 そして、ファリサイ派の一部が脱出したことについては、パウロらの影響が
あったと考えられるのです。
 ところで、イエス様と同じく、パウロも実際に6年後に何が起こるのかは知
らずに、しかも62年には刑死したと言われているにも関わらず、予感しつつ、
ユダヤ人に悔い改めを求めていたのでした。
 その内容は先々週申し上げた通りですが、「モーセの律法と預言者からイエ
スへ」という流れにもとづいて、ユダヤ教徒が皆キリスト教徒になってしかる
べきこと、キリスト教への改宗を強く勧めたのです。それは、ユダヤ戦争の4
年前、62年の仮庵祭のころ、エルサレムに突然現れて、エルサレムと聖所の滅
びを預言したアナニアの子イエスという預言者と、思いを一つとするものでし
た。神殿を捨てよ、ということです。
 しかし、なぜパウロはそのようなことをしたのか、それが、パウロの同胞ユ
ダヤ人への愛であったのではないか、それが、今日新たに展開されるテーマで
す。

25節〜26節前半「彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、
パウロはひと言次のように言った。」

 今日のテキストを正しく理解するためには、ここで言う「彼ら」が何者で、
いかなる点で意見が一致しなかったのか、はっきり把握しておくことが必要で
す。
 ローマにあるファリサイ派の指導者たちがキリスト起用を受け入れるかどう
か、で意見の不一致があったのでしょうか。そうではありません。その「意見
の不一致」は、キリスト教を受け入れるかどうか、ではなく、あくまでも、
ファリサイ派内で、ユダヤ教の滅びについて、パウロと認識を同じくするとこ
ろまでは行った人と、行かなかった人の不一致です。
 もっと、具体的に言うと、神殿の崩壊を信じ受け入れた人と、受け入れられ
なかった人との違いです。
 もちろん、パウロの期待には全員が答えていません。しかし、それでもパウ
ロは、パウロの言うことを受け入れた人がいたことに一応の満足をしたのです。
 せっかく、キリスト教への改宗をこんこんと説いたのに、キリスト教への改
宗はだれも受け入れず、受け入れたといっても、神殿の崩壊を信じ受け入れた
だけである。そして、多くの人はそれすらも受け入れない。この結果にわたし
たちだったら、いら立ちを覚えることでしょう。しかし、パウロはそれなりに
満足していたのです。
 なぜでしょうか。それはパウロにはユダヤ人への愛があったからです。愛が
あったがゆえに、それでもユダヤ人を受け入れたのです。
 それは、ユダヤ人が(かつての)同胞であったからだけではありません。ユ
ダヤ人が「神に選ばれた(愛された)民」であるとの確信があったからです。

(この項、続く)



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