2019年02月17日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第113回「使徒言行録28章21〜22節」
(15/3/1)(その3)
(承前)

 ローマのシナゴグのパウロに対する無知が事実だったとしたら、そこには深
いわけがあるに違いありません。
 そのわけとして、唯一考えられるのは、エルサレムのサンヒドリンがパウロ
についての情報を全世界のシナゴクに流すのをやめた、ないしは断念した、と
いうものです。
 もしそうだったとしたら、なぜでしょうか。それは「ユダヤ人の告発がロー
マ皇帝に受け入れられない」つまり、ユダヤ人の主張はローマには受け入れら
れない、と判断された場合だけでしょう。
 そんなことあり得るのか、と思いますが、ありうるのです。ヨセフスの『古
代誌』によれば、ローマとユダヤの関係が悪化すると、ローマはユダヤからの
告発をまともに受け取らない傾向があったのです。
 以上推測の部分が多いのですが、ローマのシナゴグのパウロに対する無知の
背景に、ローマとユダヤの関係の悪化が窺われることは確かです。
 だとすると、時代認識において、つまり、「ユダヤが危ない」という危機意
識においては、パウロとディアスポラ(外国居留)のユダヤ人指導者とは一致
していたはないでしょうか。
 ここに、ユダヤの存続をかけての対話が始まります。

22節「『あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派につい
ては、至るところで反対があることを耳にしているのです。』」

 命がけの対話ですから、たとえ「この分派については、至るところで反対が
あることを耳にしてい」ても、なさねばなりません。ユダヤ教指導者もそこま
で、追い詰められているのです。
 わたしたちもこの対話の成り行きを今の時代と重ね合わせながら真摯に見
守っていきたいものだ、と思います。
 そして、厳しい時代の中でのクリスチャンの在り方、身の処し方を見いだし
ていきたいものであります。

(この項、完)


第114回「使徒言行録28章23〜24節」
(15/3/8)(その1)

23〜24節「そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって
来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、
モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたので
ある。ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしな
かった。」

 今日は、先週の説教の最後の部分を繰り返すところから始めることといたし
ます。
 ローマにおいてなされている、パウロとユダヤ教指導者との間の、実に意外
な取り合わせの対話です。本来敵同士であるはずの者が、なぜ、ここで、親し
い、そして真摯な対話をすることができたのか、それは、お互いに未知で
あって、白紙の状態から対話ができたからではありません。22節では、「この
分派(キリスト教)については、至るところで反対があることを耳にしている
のです。」とユダヤ教指導者もはっきり言っており、お互いに敵であることを
認識したうえでの対話なのです。
 しからば、なぜそこで、争論ではなく、真摯な対話が成立したのか。実はそ
こには、共通の時代認識があった、と言わざるを得ないのであります。つまり、
「ユダヤが危ない」という危機意識において、です。
 パウロは、その時代認識をどこで獲得したのでしょうか。それは、おそらく
囚人として、ローマと直接対峙することから得た「勘」でしょう。このままで
は、ローマとユダヤは必ずぶつかる。そして、それはユダヤの破滅を意味する、
という認識です。
 ローマのユダヤ教指導者は、その時代認識をどこから獲得したのでしょうか。
それは、パウロの場合と違って、かすかな、かすかな認識であったかもしれま
せん。が、エルサレムのユダヤ人に訴えられて、その囚人としてパウロがロー
マに連れてこられたのに、その情報がサンヒドリンから流されていない、とい
うこと自体に、ローマとユダヤの関係の悪化を、それがわずか数年後のユダヤ
の滅びに通じるとは思っても見なかったでしょうが、かすかに、しかし、ロー
マにいるだけに確かに感じ取ったのではないでしょうか。
 そして、時代認識において、つまり、「ユダヤが危ない」という危機意識に
おいて、ユダヤの存続をかけての対話が始まったのであります。今日からその
対話の内容に入って行きますが、わたしたちは、そのことをきちんと認識する
必要があります。

(この項、続く)



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