2019年01月27日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第112回「使徒言行録28章17〜20節」
(15/2/22)(その2)
(承前)

 そもそも使徒言行録では、「教会(エクレーシア)」と言えば、エルサレム
の教会のこと、そしてせいぜい、11:19以降ですが、アンティオキアの教会の
ことでした。エクレーシアという語が、使徒言行録では23回用いられており、
その中、教会以外の意味で用いられている4回を除くと、19回中、10回はエル
サレム教会のこと、そして4回がアンティオキア教会のことをさしています。
教会と言えば、この時代、あくまでもこの2つの教会のことをさしていたこと
が分かると思います。
 残りの5回がパウロの伝道によって形成された異邦人教会を指していますが、
その中で組織がしっかりした「教会」と言えるものは、20章に出てくるエフェ
ソの教会(長老)だけでした。パウロの異邦人伝道が大きな成果を上げたこと
は確かですが、それが「教会」に成長していくためには、大きな困難を伴って
いたのです。
 そして、使徒言行録には「ローマの教会」という言葉は一度たりとも出てき
ません。まだパウロが行って伝道していないのだから当たり前だ、と言われれ
ばそのとおりなのですが、パウロでなくとも、伝道がなされ、教会が形成され
れば、使徒言行録はそのように書きますから、たとえ伝道がなされていたとし
ても、教会形成は困難を極めていたのでしよう。「ローマの教会」について、
私たちは以上のイメージをまず抱いておくことが必要です。
 ところが、使徒言行録は「ローマ」という言葉について、28章より前には3
回しか触れていないのですが、その中の1回(18:2)では、クラウディウス
帝によるローマ在住のユダヤ人追放令に触れていることに注目しなければなり
ません。コリントにおいて、そしてエフェソにおいて、パウロのよき助け手と
なったプリスキラとアキラ夫婦は、この迫害を逃れてきた人だったのです。そ
の後、パウロ到着までの間に「ローマの教会」がどのような歩みをしていたの
か、迫害があったのか、なかったのか、不明です。が、困難が会った事には間
違いはありません。「ローマの教会」が、パウロがローマに向かっている、と
の情報を得たとしたら、どんなにか待ちわびたことでしょうか。
 前々回のところですが、パウロ一行がプテオリに到着したと知るや否や、
63.64qないしは48.84qの道のりをおそらく歩いて、アピイフォルムないしは
トレス・タベルネまで迎えに出て来てくれたこと自体に、心からなる歓迎の思
いが現れていますし、また、この出会いですべてが満たされたのではないで
しょうか。まさに、パウロは「彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。」
のであります。
 だとしたら、今までのパウロの異邦人伝道のパターンから言えば、直ちに宣
教活動に入るべきところ、しかも、多くの町でそうであったように、シナゴグ
へまず入って、ユダヤ教との対決軸を明らかにする、すなわち、ユダヤ教徒を
挑発する、ということをするはずなのに、なぜパウロはローマに限って「おも
だったユダヤ人たち」、すなわちシナゴグの指導者たちを招いて「懇談」の時
を持ったのでしょうか。その理由、意味を次のところから探りたい、と思いま
す。

18〜20節「彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民
に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、
エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人
はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈
放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私は皇帝に
上訴せざるを得ませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありま
せん。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたので
す。イスラエルが希望していることのために、私はこのように鎖でつながれて
いるのです。』」

 パウロはエルサレムで起こったことを、「親愛なる兄弟たち」といった、心
のこもったニュアンスの呼びかけをもって正確に伝えました。「わたしは、民
に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、
エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人
はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈
放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私は皇帝に
上訴せざるを得ませんでした。」と説明しました。これは、21章から25章に記
されている、パウロがエルサレムで体験したことの正確な要約です。パウロは、
神殿に入って「清めの式」をさえ行い、ユダヤの慣習に則った行動をさえ行っ
たのに、彼に敵意をもつディアスポラのユダヤ人が、「聖なる場所を汚した」
という濡れ衣を着せ、その場にいたユダヤ人を扇動して騒ぎをひきおこしたの
が、そもそもの事件の発端でした。

(この項、続く)



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