2019年01月13日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第111回「使徒言行録28章16節」
(15/2/15)(その2)
(承前)

「わたしたちがローマに入ったとき」

 話は、パウロら一行が、つまりパウロと、ルカとアリスタルコ、そして忘れ
てならない、百人隊長をはじめとする兵士たちがローマに、どこの門から入っ
たかは知りませんが、入ったその時のことです。
 それはいったいいつだったのか、私たちはそのことが大変気になります。
しかし、それを知る手掛かりは16節周辺には全くなく、かなり遡って、あの、
断食日を過ぎているのに、パウロの忠告を無視して、「良い港」を出発したあ
そこまで遡ります。27:9です。「断食日」というのはユダヤ教のカレンダー
で決まっているので、パウロらが「良い港」を出航したのが、西暦に直すと何
年であるか、推測できるのですね。すごいですね。
 で、当時ヴェゲティウスという人の書いた軍事関係の文献によれば、航海は
9月15日からは『危険』、11月11日からは「禁止」とされていました。皆さん、
これを頭に入れておいてください。要するに後になればなるほど航海は危険だ、
ということですね。
 で、更に、パウロの上訴を決定したときの総督フェストゥスの在位期間は54
ないし56〜60(56の方が信用できる)と考えられますので、この期間の「断食
日」がいつであったか、を確認すればよろしいのであります。
 すると、「断食日」が明ける日は、57,58,60,61,62の各年が秋分より早くて、
つまり9月23日ごろより前、59年だけがやたら遅くて、10月5日だったので
すって。
 すると、パウロ一行は、断食日を過ぎて出航して、実際にとんでもない大嵐
に遭ってしまったのですから、「良い港」を出港したのは、西暦59年の10月で
ある、という可能性が最も高いのです。
 そしてその後は、皆さんご存知のとおり、2週間嵐にもまれ、マルタ島に漂
着して、そこで3カ月を過ごし、たぶん60年の1月末にマルタ島を出航して、
間もなく、ローマに到着しました。その「間もなく」ですが、28:11〜15の日
数だけ足すと13日ですが、マルタ〜シラクサ間の航海の日数、そして特にシラ
クサ〜レギオンの航海の日数、プテオリからローマまでの徒歩の日数が分かり
ませんので、13プラスかなりのアルファだと思います。でも、まさか、年を越
すことはなかったでしょう。60年のうちにパウロら一行はローマに入った、と
言ってよろしいか、と思います。
 さて、この60年のころのローマの状況です。これは、使徒言行録にはなくて、
聖書外の資料から知るしかないのですが、ユダヤ人そして、キリスト教徒に
とっては、かなり厳しい時代が始まろうとしていた、ということをわたしたち
は覚えておく必要があります。
 すなわち、ヨセフスによれば、フェストゥスの次の次の総督、フロロスの時
代に、その悪政に対しユダヤ人が反乱を起こし、66年のことですけれども、ユ
ダヤ戦争となって、エルサレムの壊滅、神殿の崩壊を招いてしまいました。
 一方ローマでは、クラウディウス帝の後(54年)、ネロが帝位を継承してお
り、ネロはユダヤ戦争において、エルサレムを徹底的に破壊させるとともに、
64年には、ローマで最初のキリスト教徒迫害を行った、とされています。
 60年という年はまだ平穏だったかもしれません。しかし、このわずか4年後
には、そして6年後には、大迫害、大戦争が実は待っていたのです。2015年の
日本で考えてみましょう。今は「平和」の名残が残っています。しかし、4年
後に大迫害、6年後に大戦争が待っているとしたらどうでしょうか。のんびり
と自分だけの「平和」というより「安穏」を謳歌しているわけにはいかないの
ではないでしょうか。
 ところで、そういう嵐の前の静けさの時代です。ユダヤから送られてきた囚
人パウロの生活はどうだったのでしょうか。ここでその問題に入ってまいりま
す。
 「パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。」
皆さま、この一言を読んで、囚人パウロがどのような生活をしていたと思われ
ますでしょうか。獄屋の中ではなく、兵営の中でさえもなく、一軒家に住んで
いたように思われたのではないでしょうか。私もそうでした。
 しかし、実態はそうではないのではないか、ということをこれからお話しし
たい、と思います。
 まずテキストの読みの問題です。問題は「自分だけで住む」と訳されている
部分です。
 最初に「住む」と訳されているところ、原語は「メノー」という語です。こ
れは、英語に訳すと、「リメイン」という語になり、「滞在する」という意味
の語です。使徒言行録に、ここ以外に7回の用例があり、すべて「滞在する」
の意味です。一つの典型的な例は9:43、「ペトロはしばらくの間、ヤッファ
で皮なめし職人のシモンという人の家に滞在した」です。あくまでも、「住ま
いとした」のではなく、一時の宿なのです。

(この項、続く)



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