2018年09月30日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第104回「使徒言行録27章13〜20節」
(14/12/28)(その2)
(承前)

 しかし、ここから先は技術ではどうにもならない問題にぶつかりました。な
のに、乗り越えられると考えたところが甘いのです。

17節「小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻き付け、シルティスの浅瀬
に乗り上げるのを恐れて海錨をおろし、流されるにまかせた。」

 「シルティスの浅瀬」がキーワードです。「シルティスの浅瀬」は、トゥニ
シア、トリポリタニア、キリナイカの間にある浅瀬です。水が浅くなっており、
航海上の難所です。紀元前253年には、執政官ガナエウス・セルヴィリウスと
ガイウス・セムプロニウスがこの浅瀬で、そこから逃れるために積み荷を捨て
ざるを得ませんでした。
 しかし、カウダ島からは375マイル、600キロ以上も離れています。何をそん
なに畏れたのでしょうか。我々は、「シルティスの浅瀬」について、使徒言行
録以外には、紀元前253年の出来事ぐらいしか知りえないので、分かりません。
が、私は、この後の船員たちの行動から推測するに、何かの「たたり」を恐れ
ていたのだ、としか思えません。
 五島で民俗調査をしていたときに、漁師たちの間に俗信が非常に根強いこと
をしりました。勇猛果敢であると同時に、「たたり」を本当に恐れているので
す。
 あくまでも推測にすぎませんが、「シルティスの浅瀬」には、船乗りたちを
恐怖に陥れるような、「たたり」の伝承があったのではないか、と私は考えて
います。
 「たたり」を免れるために、私たちは何をするでしょうか。神々の怒りを鎮
めるために、神々の怒りの原因となりうるものを捨てる、これです。
 この時人々は「小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻き付け」、ここ
までは分かりますが、「シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨をおろ
し、流されるにまかせた。」ここが分からないのです。もしも、浅瀬に乗り上
げるのを恐れて錨をおろしたのなら、それはそれでわかりますが、それでは
「流されるにまかせた」ことにはなりません。海に下したのは、別のものだっ
たはずです。
 「海錨」と訳されている語の原語は「スケウオス」です。「スケウオス」に
は、確かに「船具」という意味はあります。しかし、どの船具を指しているか
は、17節だけでは全く不明なのです。「巻き上げられた帆」だと推測する人も
います。そして、「海錨」と考える人もいるということです。新共同訳は「海
錨」を採用しましたが、私は、どちらの説も全くの勘違いをしている、と考え
ています。
 人々が投げ込んだものは、もっと宗教的な意味合いを持ったもの、神々をな
だめる効果がある者だったのではないでしょうか。

18〜20節「しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海
に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの
間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全
く消えうせようとしていた。」

 「スケウオス」を投げ込んだことで、神々をなだめる効果があったどころか、
神々の怒りはますます増すこととなりました。浅瀬に乗り上げるどころではな
い、船自体の崩壊の危機に直面したのです。
 人々は、まず積荷を捨て始めました。ヨナ書の1:5にあるように、嵐の時、
積荷を投げ込むことは、人身御供に替わる意味があったようです。しかし、そ
れでも神々の怒りは静まりません。
 それで人々は、更に別のものを投げ込み始めました(19節)。それが、また
「スケウオス」だったのです。学者たちは、「スケウオス」=船具、という固定
観念にとらわれていますから、今度は何だろう、ということで、帆柱の下の部
分ではないか、などと「想像」しています。でも、マストを投げちゃったら、
それだけで船が分解してしまうではないですか。
 人々が投げ込んだ宗教的な「スケウオス」とはいったい何だったのでしょう
か。それは、「人形」であったのではないか、と私は考えています。
 人身御供の代わりとしての人形ではなく、悪い用いられた方をした人形です。
エゼキエル書16:17に「お前はまた、私が与えた金銀の美しい品々を取って男の
像を造り、それと姦淫を行った。」とあります。
 ここで「像」と訳されている語の原語がLXXでは「スケウオス」なのです。
これはいけませんよね。「まずっ」というので慌てて捨てたのではないか。し
かし、それでも神々の怒りは収まらないので、慌てて、隠し持っていた第二弾
を捨てた、と言ったところが、ここで起こったことなのではないか、と、私は
あくまでも可能性の一つとして、考えています。
 しかし、それでも神の怒りは収まらず、一行は助かる望みのないところに置
かれることとなりました。
 神を畏れず、技術を過信し、もうけに目がくらんで、危険な航海に乗り出し
た上に、空にあくまで行っていたのです。気が付くのが遅かった。この罪は、
小手先のちょこちょこでは修復できないほど大きなものだったのです。
 では、どこに救いがあるのか、それが、次回の課題です。

(この項、完)



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