2018年08月12日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第101回「使徒言行録26章30〜32節」
(14/11/30)(その1)

30〜32節「そこで、王が立ち上がり、総督もベルニケや陪席の者も立ち上がっ
た。彼らは退場してから、『あの男は、死刑や投獄にあたるようなことは何も
していない』と話し合った。アグリッパ王はフェストゥスに、『あの男は皇帝
に上訴さえしていなければ、釈放してもらえただろう』と言った。」

 まず、先週に倣って、今までのところを振り返っておきたい、と思います。
騒乱罪ないしは騒乱誘発罪で逮捕され、裁判を受けているパウロです。ユダヤ
人に対して「弱み」を持つ総督フェリクスの許では放っておかれましたが、替
わって総督に就任したフェストゥスの代になって、上訴が認められ、カイサリ
アでローマ護送の時を待っています。
 フェストゥスは、自分で裁判をする権利を放棄したのですから、ローマへパ
ウロを護送するのが彼の唯一の仕事であって、フェストゥスには、パウロを未
決囚として取り扱う資格も権限もありません。なのに、パウロを見世物にした、
というのが、現在の場面です。
 フェストゥスは、ユダヤ人から敵視されているパウロを引き出すことによっ
て、ユダヤ人の面子を立てました。しかし、もう一方で、「パウロは無罪であ
る」と宣言することによって、ユダヤ人に「言う通りにはならないぞ」と脅し、
ブラフをかけたのです。
 アグリッパ王はこの脅しにどのように対応したのでしょうか。何と、フェス
トゥスにすり寄ったのです。それで、ユダヤ人にとっては天敵であるはずのパ
ウロに、ユダヤ人の王という立場にありながら、パウロの言い分を聞く、とい
うスタンスをとったのです。
 よって、パウロのここでのお話は、アグリッパ王への説得、と言うことがで
きます。
 内容的には、9:1〜19でパウロの体験として起こったことが、つまり回心
体験が、「回心前」、「回心」、「回心後」の三部構成できちんと述べられて
います。
 しかし、ここではアグリッパ王を意識し、22節、「ところで、私は神からの
助けを今日までいただいて、固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをして
きましたが、預言者たちやモーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ
述べていません。」とあるごとく、ユダヤ教徒と自分が同じ立ち位置にあるこ
とを強調し、連帯を求めたのです。
 とは言え、最後を、ユダヤ教ではタブーであった「復活の教理」で結ぶこと
により、ユダヤ教を超えた、新しい救いの時代の到来を告げたのでした。「復
活の教理」とはイエス・キリストの十字架の贖いによる「すべての人の」復活
の希望です。
 この復活の教理を、ギリシア人の代表であるフェストゥスと、ユダヤ人の代
表であるアグリッパ王がどう受け止めたか、が、先週のテーマでした。
 ギリシア人であるフェストゥスはどうだったでしょうか。「ギリシア人」ら
しい当然の反応がここで飛び出したのです。今まで冷静であった彼が突然大声
で叫びだすほどの、大いなる拒絶反応です。翻訳がとても難しいところですが、
原文では、パウロは「マニアになってしまった」と書かれています。「マニア」
とは、現代の言語でもその意味が残っていますが、何かに執着し、理性を、す
なわち人間の特性である魂の働きを失ってしまった者のことを言うのです。
「復活信仰」をそのようにしか評価できなかったのです。
 フェストゥスは、政治的には、「パウロは無罪である」と宣言しましたが、
思想信条的には、パウロの思想を全く、生理的にも受け付けてはいなかった
のです。
 一方、アグリッパ王はどうか。ユダヤ人は、パウロと根本的に対立している
かのように、少なくとも使徒言行録は記していますが、そして、政治的には、
そのとおりですが、実は思想内容はほとんど変わりありません。創造主なる神
を畏れ、終わりの時を待ち望んでいます。ですから、イエスを受け入れるか、
つまりイエスの贖いによる救い、異邦人をも含めた復活の希望を受け入れるか
どうか、で対立しているだけです。ですから、近い。アグリッパ王もそうでし
た。よって、アグリッパ王の『短い時間でわたしを説き伏せて、キリスト信者
にしてしまうつもりか。』との発言が出て来てしまうのです。簡単にクリス
チャンになるはずなのです。
 ですから、要約すると、パウロの話を聞いた上での意見は、フェストゥスは、
「政治的には、パウロをかばうことでユダヤ人に嫌がらせはするが、思想信条
的には、キリスト教はユダヤ教以上に受け入れがたい。どうしても嫌だ。」で
す。
 そしてアグリッパ王は、本人自身、前にも言いましたように、ユダヤ教徒で
あるにはあるが、ユダヤ教の外れ者ですからキリスト教にかなり近い、という
か、紙一重です。実は、もうほとんど受け入れているのではないか、と思われ
ます。ただ、政治的には、ユダヤ人の王ですから、パウロと教義上鋭く対立し
ているユダヤ人の立場を尊重しない訳にはいかない。ゆえに、公式には、受け
容れないことにしておこう。」ということだ、と思われるのです。非公式の、
あくまでも非公式の話し合いですが、このような判断が各自の胸の内になされ
た、という前提で、本日のテキストを見てまいりましょう。

(この項、続く)



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