2018年08月05日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第100回「使徒言行録26章24〜29節」
(14/11/23)(その2)
(承前)

 そして、フェストゥスも「ギリシア人」です。「ギリシア人」らしい当然の
反応がここで飛び出したのです。今まで冷静であった彼が突然大声で叫びだす
ほどの、大いなる拒絶反応です。翻訳がとても難しいところですが、原文では、
パウロは「マニアになってしまった」と書かれています。「マニア」とは、現
代の言語でもその意味が残っていますが、何かに執着し、理性を、すなわち人
間の特性である魂の働きを失ってしまった者のことを言うのです。
 「復活信仰」をそのようにしか評価できない。ユダヤ人伝道よりも、実は異
邦人伝道の方がよっぽど多難なのです。
 しかし、ルカは、第二伝道旅行、第三伝道旅行のときの記述においてもそう
でしたが、この点には、深入りしません。25節「パウロは言った。『フェス
トゥス閣下、私は頭がおかしいわけではありません。真実で理にかなったこと
を話しているのです。』で済ませてしまうのです。しかし、「体のよみがえり」
を主張する「復活の教理」のどこがどう理性に適っているのか、それを心から
納得させるのは、並大抵のことではありません。未だに、ヨーロッパのキリス
ト教徒の間でも完全には納得されておらず、それで、ギリシア思想によるキリ
スト教への反抗という問題が、繰り返し、繰り返し起こってくるのです。
 が、ルカは当面は、その問題には触れません。先送りします。そして、「ユ
ダヤから世界へ」という図式にこだわり、26節から突然、ユダヤ人であるアグ
リッパへの説得に入って行きます。本物のパウロでしたら、コリント伝道であ
れだけの苦闘をしたのですから、フェストゥスを中途半端のまま放っておくわ
けはありません。が、フェストゥスへの説得がなされたとしても、その内容は
書かれていないので私たちが知る由もありません。
 ユダヤ人への説得でしたら「簡単」です。

26〜27節「王はこれらのことについてよくご存じですので、はっきりと申し上
げます。このことは、どこかの片隅で起こったのではありません。ですから、
一つとしてご存じないものはないと、確信しております。アグリッパ王よ、預
言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います。」

 王がユダヤ人であって、預言者を信じていれば、「体のよみがえり」への望
みをもっているはずです。ならば、イエス・キリストの誕生から復活、そして
ペンテコステでその出来事が世界に知らされた事実を知れば、「復活の教理」
を信ずるはずだ、ということです。
 ただ、「イエスの復活」をアグリッパが事件として知っていたか、と言えば、
知りえなかったでしょう。なぜなら、彼は紀元後27ない死28年の生まれで、イ
エスの活動期には幼児でした。更に、紀元後50年まで、ローマのクラウディウ
スの宮殿で暮らしていたからです。
 しかし、ここでパウロ(ルカによる福音書)が言っているのは、そのような
表面的なことではありません。「片隅」という訳が大変にまずいのですが、原
語は「隠れて」という意味です。ルカは、ルカによる福音書に冒頭から、イエ
スの出来事を「隠されていたこと」、神の恵みが徐々に明らかになって行く過
程として描いているのです。ペンテコステ以後は、すべてのユダヤ人は「イエ
スの復活」知っていて当然なのです。
 よって、アグリッパを説得するのは、容易なことです。

28〜29節「アグリッパはパウロに言った。『短い時間でわたしを説き伏せて、
キリスト信者にしてしまうつもりか。』パウロは言った。『短い時間であろう
と長い時間であろうと、王ばかりでなく、今日この話を聞いてくださるすべて
の方が、私のようになってくださることを神に祈ります。このように鎖につな
がれることは別ですが。』」

 要するに、本人が言っているごとく、アグリッパを説得するのは容易なこと
なのです。
 ここで、「短い」「長い」と訳されている語、原文では「小」と「大」とし
か書かれておらず、時間なのか、労力なのか、議論されてきました。文法的に
言うと、「時間」の可能性は低いのですが、新共同訳は時間としています。一
方、口語訳は「労力」として訳しています。
 が、これはどっちでもいいので、要するに、アグリッパは「復活信仰」に近
いところにいるので、「復活の教理」を受けて入れなさいよ、との意です。
 「キリスト信者」、同じ語が、11:26では「キリスト者」と訳されていまし
た。同じ語を文脈の違いがないにもかかわらず、訳し分けるのはよろしくない。
ここも正真正銘「クリスチャン」の意味であり、パウロ(ルカ)にとっては、
「復活の教理」を信じる者こそ、クリスチャンなのです。
 クリスチャンの皆さんは、このことを確認しましょう。そして皆さんの周り
にも、「復活の教理」に近い人がいるはずです。その人々を説得しましょう。
とりあえず、今日はそこまで、といたします。

(この項、完)



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