2018年07月22日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第99回「使徒言行録26章19〜23節」
(14/11/16)(その2)
(承前)

 さて、以上を踏まえ、本日は、第三部「回心後」に入ります。パウロの宣教
の要約と、それでは、熱心なユダヤ教徒でもなく、はたまた異邦人とも言えな
いアグリッパ王に何を期待しているのか、明らかとなります。世界伝道は、こ
ちこちのユダヤ人には抵抗があまりにも大きすぎるかもしれませんが、アグ
リッパ王もその一人である、ユダヤ教リベラル派には、同じ立ち位置に立って
ほしいのです。

19節「アグリッパ王よ、こういう次第で、私は天から示されたことに背かず、」

ここでパウロは、その伝える「福音」が、「天」、「神」からのものであるこ
とを言っています。「神」から出た者が、それのみが正しいものであることは、
ユダヤ教徒であれ、異論はありません。

20節「ダマスコにいる人々を始めとして、エルサレムの人々とユダヤ全土の人々、
そして異邦人に対して、悔い改めて神に立ち帰り、悔い改めにふさわしい行い
をするようにと伝えました。」

 そして、パウロの宣教活動があくまでもユダヤから出たものであること、そ
して同心円的に広がって行ったものであることが強調されます。これでしたら、
ユダヤ教徒でもリベラルな人は受け入れられるものです。
 しかし、20節には、日本語の翻訳にしてしまうと明らかなウソとなってしま
うウソがあります。お気づきでしょうか。そうです。パウロは、ユダヤ全土で
は一切伝道をしてはいないのです。
 が、ルカは分かっていて、実は微妙な言い方をしているのです。ギリシア語
の原文をよく読むと気づくのですが、「ダマスコにいる人々」「エルサレムの
人々」「異邦人」は「伝えました」の目的語となっています。伝道の対象だと
いうことです。事実パウロは何らかの形で伝道しました。しかし、「ユダヤ全
土の人々」については、「伝えました」の目的語ではなく、「において」の
ニュアンスなのです。「本当は伝道していないのだけれど、伝わった」という
ことになります。「同心円的伝道」を強調するために書き添えたのです。
 そうなると、21節「そのためにユダヤ人たちは、神殿の境内にいた私を捕ら
えて殺そうとしたのです。」は、ユダヤ教リベラル派からしても不当な行為と
なります。一緒に反対してください。と言うことです。
 そして、結局は22節、「ところで、私は神からの助けを今日までいただいて、
固く立ち、小さな者にも大きな者にも証しをしてきましたが、預言者たちや
モーセが必ず起こると語ったこと以外には、何一つ述べていません。」とある
ごとく、ユダヤ教徒と自分が同じ立ち位置にあることを強調し、連帯を求めた
のです。
 しかし、死者の復活の教理には、さすがのユダヤ教リベラル派もついて行く
ことができなかった、と考えられます。復活の教理とは、23節「つまり私は、
メシアが苦しみを受け、また、死者の中から最初に復活して、民にも異邦人に
も光を語り告げることになると述べたのです。」というもので、イエスの復活
を初穂として、復活の恵みがユダヤ人ばかりでなく、異邦人にも及ぶ、という
ものです。
 クリスチャンには信じがたいことかもしれませんが、旧約聖書には、「死者
の復活の教理」は一切ありません。ダニエル書12章などで、終末における「永
遠の命」への希望が語られても、それでも「死者の復活」の観念はありません。
それが、旧約以後のユダヤ教の時代になって、つまり、旧約続編の時代になっ
て、初めて、「死者の復活」への希望が生まれ、それが、「死者の復活」の教
理へと発展していったのでした。その唯一の典拠が、本日別刷り資料でお配り
したマカバイ記二、12:43以下なのです。
 しかし、マカバイ記二における復活は、「敬虔な心を抱いて眠りについた
人々のために(45節」」つまり「律法を守りとおした人のために」備えられたも
のであって、律法違反ばかりしている庶民にとっては、ましては異邦人にとっ
ては、実際上閉ざされた道でした。
 それを、イエスが、自らも復活の初穂となり、そしてすべての人に「死者の
復活」の道を開いた、ということはそのままイエスがすべての人の罪の贖いを
なした、ということを意味しますが、これを「福音」である、と使徒言行録に
おけるパウロ、ルカの描くパウロは主張しているのです。
 この新しいよきおとずれ、「福音」、そして光を受け入れることができるか
どうか、アグリッパ王も、そして私たちも問われています。

(この項、完)




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