2018年07月01日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第98回「使徒言行録26章12〜18節」
(14/10/19)(その1)

 過ぐる週より、パウロのアグリッパ王の前での「弁明」が始まっております。
「弁明」とはいえ、正式の裁判の場面では全くなく、総督フェストスによって、
「国賊」として、ユダヤ人の前に晒し者されているパウロです。しかし、一方、
フェストスはユダヤ人の主張を聞く気は全くなく、無罪を宣告し、それで、ア
グリッパ王が、フェストスにすり寄る、という形で、パウロの話を聞く場面が
始まることとなりました。
 パウロがどんな話をするのか、興味津々なところです。ところが、実は、新
しい話は全くなく、9:1〜19でパウロの体験として起こったことを、つまり
回心体験を、22章1〜21でユダヤ人に語った事柄が、同じことが繰り返し述べ
られるのです。
 そして、前回の部分は、実は、「ユダヤ教時代のパウロ」について触れたも
のでした。22章で言うと、3〜5節に当たる部分です。パウロが、熱心なユダ
ヤ教徒であり、ユダヤ教当局者から、権限を委託されて、キリスト教徒を迫害
していた、ということで、何ら新しい史実は触れられていません。
 しかし、同じ事柄に触れながら、今回の弁明では、「聞き手」であるところ
のアグリッパ王への配慮が見られる、ということを前回申し上げました。
 2点あります。一つは、パウロは、自分がかつて熱心なユダヤ教徒であった
ことを語りながら、「律法」という言葉を一切使っていないということです。
 もう一つは、キリスト教のことを、22章の場合のように、「この道」などと
いうあいまいな表現ではなく、神が(イエスを)復活させてくださった出来事
として捉えている、ということです。
 なぜ、この2点が「アグリッパ王への配慮」に当たるのか、という点につい
ては、前回詳しく触れましたし、要約するのは困難ですので触れません。
 しかし、結論だけ申し上げれば、パウロは自分の体験を語りつつ、イエス・
キリストの福音が、アグリッパ王のような、もともと異邦人であったが、ユダ
ヤ人になろうとしてなりきれなかった人、すなわち、ユダヤ教からすれば、
「落ちこぼれ」、軽蔑にさえ値する人にも、行き届くことを宣べ伝えたのです。
 どうやって行き届くのか、と言えば、それは、イエスの復活に、ということ
は罪の贖いにということですが、与ることによって、です。それで、イエスの
復活が強調されていたのでした。
 さて、今日は、前回に引き続いて、パウロが、回心の体験について述べてい
るところです。内容的には、9:1〜19でパウロの体験として述べられている
こと、そして22章1〜21でユダヤ人に語ったことと一致していることが予測さ
れますが、ここにもアグリッパ王への配慮があるのか、あるいは、さらに別の
配慮が働いているのか、そのあたりに注目してみていくことといたしましょう。

12〜18節「こうして、私は祭司長たちから権限を委任されて、ダマスコへ向
かったのですが、その途中、真昼のことです。王よ、私は天からの光を見たの
です。それは太陽より明るく輝いて、私とまた同行していた者との周囲を照ら
しました。私たちが皆地に倒れたとき、『サウル、サウル、なぜわたしを迫害
するのか。とげのついた棒をけると、ひどい目に遭う』と、私にヘブライ語で
語りかける声を聞きました。私が、『主よ、あなたはどなたですか』と申しま
すと、主は言われました。『わたしはあなたが迫害しているイエスである。起
き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたがわたしを見た
こと、そして、これから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、ま
た証人にするためである。わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出
し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの
支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らがわたしへの信仰によって、罪の赦し
を得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前にあずかるようになるためで
ある。』」

 まず、12〜15節は、天から光が差してきた場面ですけれども、9章、22章で
すでにふれられたことであり、何ら新しいものはない、と言っても構いません。
 ただ2点、ここで初めて述べられていることは、その天からの声がヘブライ
語であったことと、その天からの言葉の中に、「とげの付いた棒をけると、ひ
どい目に遭う」というギリシアの格言が含まれていた、ということです。

(この項、続く)



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