2018年05月06日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第94回「使徒言行録25章6〜12節」
(14/9/21)(その2)
(承前)

 まず、フェストスの提案内容です。
「エルサレムに上ってわたしの前で裁判を受け」る、というものでした。
これには二つのケースが考えられます。一つは、エルサレムで総督を裁判長と
する裁判が開かれる場合、もう一つは、総督立会いの下、サンヒドリンで裁判
が行われるケースです。どちらも、ほとんど、考えられないケースです。だっ
て、第一の場合で言うと、総督府は今はカイサリアにあるんです。エルサレム
のどこで裁判するのでしょうか。第二の場合で言えば、サンヒドリンでの裁判
に異教徒である総督が立ち会うなど、原理的にありえないし、しかも私たちは
「それが行われた」という記録を知らないのです。
 要するに、これらの提案は「ありえへん」提案であり、9節は、事実では全
くなく、ルカが、パウロの「受難」をイエスの「受難」になぞらえようとした
「創作」である、と考える人が多いのです。
 私も、ここが「創作」である可能性はかなり高い、と思います。だって、総
督自身が、25:1〜5、先週のところで、エルサレムでの裁判を否定したばか
りではないですか?
 しかし、そうやって切り捨てるのは簡単ですが、そう書いてあることはある
のですから、仮にこのような提案が、多少の理解のための解釈を必要としてい
る、としてもなされた、としたら、どういう意味なのか、次に考えてみたい、
と思います。
 実は、今の原文は新共同訳のようにしか、どうあがいても訳せないのですが、
少数の、というか、一つの写本に「ヘー」というギリシア語の1文字、1単語
を加えたものがある。
 そうすると、ここは「お前は、そこでこれらのことについて、エルサレムに
上って(つまりサンヒドリンで)裁判を受けたいと思うか、それともわたしの
前で裁判を受けたいと思うか」となるし、そのように訳せるのです。
 こうなると、つまり、この少数派写本が原本ではなかったとしても、この少
数派写本の言うような意味をルカが意図していたとしたら、すべてが明快にな
るのです。
 フェストスは、カイサリアでこの裁判が行われることが正当であることを百
も承知であり、実際そのように実行しています。
 しかし、ここで、ユダヤ人の立場に配慮した。ルカの「ユダヤ人に気にいら
れようとして」という言い方は言い過ぎ。それこそ、ルカの「創作」です。が
、神殿の目隠し壁撤去騒動のときのユダヤ人の主張への配慮に見られる人権感
覚がここでも現れて、ユダヤ人の「(宗教上の問題なのだから)エルサレム
(サンヒドリン)での裁判」の主張を、それなりの正当性のある主張として受
け止めたのです。
 「(宗教上の問題なのだから)エルサレム(サンヒドリン)での裁判」との
考え方であれば、25:1〜5のフェストスの主張、こだわりとは矛盾しません。
しかも、選択肢つきですから、パウロの立場にも配慮していることになります。
以上のように解釈できる可能性があるのですが、いかがでしょうか。
 さて、次です。
だとすると、パウロは当然のことながら、サンヒドリンにかけられる、いや、
暗殺に至るエルサレム行を拒否し、カイサリアでの裁判を求めました。しかし、
それに止まらず、皇帝への上訴を求めました。
 フェストスの提案が、今のテキストのように、「押し付け」であれば、上訴
は「強いられた選択」ということになるでしょうが、フェストスの提案が、選
択肢を伴ったものであったとすれば、「パウロの自由意思による決断」という
ことになります。そして、そのように、私は受け止めています。
 当時の上訴は、現在の、というより近代以来の上訴制度と違いまして、下級
審の判断に不服がある場合にのみ許されることではなく、より上級の権威にだ
れでも訴えることができたのです。10節の「陪審」は、今日の「陪審」と違い、
議決権があるわけではなく、「コンサルタント」ですが、法的に正当であるこ
とが確認されて、パウロの裁判はローマへと、パウロ自身もローマへと旅立つ
こととなったのでした。
 思いもかけない成り行きによってではありますが、こうしてキリスト教は名
実ともに、ユダヤの宗教(の一部)から、ローマの宗教、世界の宗教となる第
一歩を踏み出したのです。
 神は、思いもかけない仕方で、飛躍の第一歩を用意していてくださる、私た
ちも、そのことを忘れずに、自分で勝手に決めつけず、感謝をもって受け止め
たいものです。

(この項、完)



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