2018年02月25日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第89回「使徒言行録24章10〜21節」
(14/8/17)(その2)
(承前)

 ここは、純粋に日程のことを問題としているので、エルサレム滞在期間のこ
とでしょう。その間、、使徒言行録の記事からは、論争、騒動の記録はありま
せん。
 しかし、分派そして、神殿冒涜の問題はどうなのでしょうか。

14〜21節「『しかしここで、はっきり申し上げます。私は、彼らが「分派」と
呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に即したことと預
言者の書に書いてあることを、ことごとく信じています。更に、正しい者も正
しくない者もやがて復活するという希望を神に対して抱いています。この希望
は、この人たち自身も同じように抱いております。こういうわけで私は、神に
対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めて
います。さて、私は、同胞に救援金を渡すために、また、供え物を献げるため
に、何年ぶりかに戻って来ました。私が清めの式に与ってから、神殿で供え物
を献げているところを人に見られたのですが、別に群衆もいませんし、騒動も
ありませんでした。ただ、アジア州から来た数人のユダヤ人はいました。もし、
私を訴えるべき理由があるというのであれば、この人たちこそ閣下のところに
出頭して告発すべきだったのです。さもなければ、ここにいる人たち自身が、
最高法院に出頭していた私にどんな不正を見つけたか、今言うべきです。彼ら
の中に立って、「死者の復活のことで、私は今日あなたがたの前で裁判にかけ
られているのだ」と叫んだだけなのです。』」

 次に、パウロは「分派」の問題に入ります。しかし、パウロはこの点に関し
ては否定しません。キリスト教はユダヤ教を母体としているので、確かに「分
派」と言えば、「分派」だからです。
 しかし、次にパウロの弁論は、キリスト教の立場に立つ読者からすると、思
いもよらない方に走って行くのですね。「分派」と言えば、「分派」だが、律
法も預言者も大事にしているし、復活信仰についても、ユダヤ教と共有してい
る(正確に言えば違いますが)。キリスト教はユダヤ教と同じだ、というので
す。
 確かに、この場をしのぐ議論としては、キリスト教も、律法も預言者も大事
にしているし、復活信仰についても、ユダヤ教以来のものを受け継いでいるの
で、間違ってはいませんが、「ユダヤ教と同じだ」と言われれば、「NO」と
言わざるを得ませんし、イエス・キリストの出来事、そし異邦人伝道のことが
何にも出てこないのが問題なのです。
 更に神殿冒涜の問題も、イエスが宮きよめにおいて、あえて「神殿冒涜」と
言われることをされたことを考えると、いやいや行った神殿での「清め」を
もって言い訳するなど、歯がゆくて、歯がゆくて仕方ありません。
 カルヴァンも同じ思いだったらしく、この弁論については、大変気に入って
いません。
 しかし、なぜパウロの弁論が中途半端なものに終わってしまっているか、と
言えば、アナニア(代理人テルティロ)の告発(正確に言えば「証言」)が、
使徒言行録の著者ルカが設定したバーチャルな(仮想の)ものであり、ユダヤ
人のパウロに対する反感の最大公約数でしかなく、リアリティー、切迫感がな
いからです。後でパウロ自身の口を通して言われているように、「アジア州か
ら来た数人のユダヤ人」は、であったら、パウロの異邦人伝道に、本気で対立
し、怒ったのではないでしょうか。
 それでは、パウロは、このぬるま湯的状況の中で、本当に、異邦人伝道にも
触れない、イエス・キリストの十字架にさえ触れない「いい加減な」弁論で済
ませてしまったのでしょうか。
 そうではありません。パウロは、「こっそりと」というか、ちゃんと、15節
で「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない
良心を絶えず保つように努めています。」とキリスト教のメッセージを伝えて
いるのです。「良心」の問題については、新共同訳聖書では翻訳の段階で無視
されてしまいましたが、ローマの信徒への手紙12章で、「霊的な礼拝」として
論じられていたことです。この「霊的な」は、「理性に基づいた」、すなわち
「良心に基づいた」という意味です。すなわち「良心」とは、「イエス・キリ
ストによって示された神のみ心を受け止める心の働き」を言います。そして、
この「良心」は、ギリシア人にも「理性」として理解されるはずのものです。
 よって、ここで、パウロはこの一言を通して、自分が求めてきたことが、イ
エス・キリストの十字架の犠牲によって開かれた普遍的な、すなわち、ユダヤ
人だけでなく、ギリシア人にも通用する礼拝のことであることを言っているの
です。
 イエス・キリストによって命令され、使徒たちに受け継がれてきた異邦人伝
道、すなわち宣教は、改めて事を起こすものではありません。が、だからと
言って、既存の社会と「まあまあ、なあなあ」でやっていくことではありませ
ん。素直に受け止められる時もあるでしょう。しかしそればかりではなく、時
に対立、迫害を受けつつも、本気で、主イエス・キリストの出来事を通してす
べての人が救われることを求めるものであります。

(この項、完)



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