2017年08月13日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第75回「「使徒言行録21章17〜26節」
(14/4/27)(その2)
(承前)

 第一伝道旅行で起こったこと、つまり異邦人伝道の原則が確立されたこと、
第二伝道旅行で起こったこと、ギリシア本土、今まで聖書にも神にも触れたこ
とのない世界でいかにして福音を伝えるか、について確立した原則について、
そして第三伝道旅行を通して、そこに、シナゴグからの独立を果たし、「教会」
が設立されたこと、これらを次から次へと諄々と語ったことと思われます。
 この熱意あるレポートに、エルサレム教会の面々は、全員とはいかなかった
かもしれませんが、皆大いに感動し、「人々は皆神を賛美し」という反応を示
したのは、ごく自然のことであった、と思われます。
 ところが、パウロの訪問を受け入れたエルサレム教会は、事前の情報の
キャッチないしは通達をもとにそうしたのでしょう、何と「裁判」の場を
もってパウロを迎えるのです。大祭司風のヤコブと、(ペトロの姿はどこにも
見られません)、長老たちが、ここで言う長老たちが、サンヒドリンでいう長
老なのか、キリスト教会に置かれた長老なのか不明ですが、全員が揃って迎え
たのです。
 そして、切り出した問題が、「異邦人伝道の成果をいかに受け止めるか」で
はなく、「パウロの律法に対する姿勢を問う」でした。何と後ろ向きのことで
しょう。時代は既に、パウロの報告は、異邦人教会の時代であり、異邦人教会
こそ王道となっているという報告であったはずなのに、です。
 なぜこのような時代遅れのことが問題となるのでしょうか。事の発端はエル
サレム会議(使徒言行録15章)にまでさかのぼります。エルサレム会議では、異
邦人信徒(キリスト教徒)に割礼=律法を強制するかどうか、が問題となりました
。そして、「原則としては、強制しない」、という合意ができたのです。当た
り前です。なぜなら、イエスがユダヤ教と命がけで訣別された、そこから、神
の国の教会、キリスト教が始まったのですから。人は、キリストの贖いの愛を
信じるだけで救われるのです。
 しかし、今までユダヤの慣習の中で、つまりユダヤ教の中で育ってきた「ユ
ダヤ人でクリスチャンになった人」が、それまで「慣習」として守ってきた割
礼=律法をどうするか、という問題は「保留」のままでした。パウロ自身はも
ちろん、使徒言行録は、ペトロの例を挙げて、「律法から自由」であるべきこ
とを主張しています。
 しかし、エルサレム教会は、この問題があいまいであるのをいいことに、
「クリスチャンも律法遵守しなければ救われない」という教義を発達させてき
てしまっていたのです。最も、かくのごときことを主張するのはユダヤ人だけ
だったでしょうが、一体どうやって「信仰義認」の教義と調和するのか、大変
疑問です。
 いずれにせよ、この背景をもとに、ユダヤ人ユダヤ主義者で固めてしまって
いたエルサレム教会が、「パウロが全ユダヤ人(クリスチャンもそうでない者
も)に律法遵守をやめさせるように、と教えている」とのうわさをもとに、パ
ウロに「律法遵守」のパフォーマンスをすることを要求してきたのでした。
さあ、パウロはどうするのでしょうか。もしこの要求を断れば、はねのければ、
パウロとしては主義主張を貫いたことにはなりはしますが、ユダヤの慣習に基
づき石打の刑に遭いかねません。
 一方、要求に屈すれば、「律法からの自由」を主張してきたパウロの信用は
墜しかねません。特に異邦人教会において…。
 さて、あなたならどうしますか。
この事実誤認に基づく、悪意ある、全く悪意そのものである訴追に対して、パ
ウロは、表面的には、エルサレム教会の理不尽な要求通りに事をなしたのでし
た。

26〜27節「そこで、パウロはその四人を連れて行って、翌日一緒に清めの式を
受けて神殿に入り、いつ清めの期間が終わって、それぞれのために供え物を献
げることができるかを告げた。」

 なぜパウロは言いなりになったのでしょうか。
私たちはここで、パウロのエルサレム入城の前に、ローマの信徒への手紙が書
かれていることを忘れてはなりません。ちょうど今、2年前の説教再録がその
部分を取り扱っているところですが、パウロは、クリスチャンの中でも、「律
法から自由な者」を「強い人」と呼び、「律法の慣習から自由になれずにいる
人」、明らかにユダヤ人クリスチャンのことですが、を「弱い人」と呼び、
「強い人」は「弱い人」のところまで降りて行って、その言うとおりにしてあ
げなさい、とまで言っているのです。「隣人愛」の観点から、です。
 パウロがエルサレム教会への献金を思い立ったのも、「隣人愛」からでした。
パウロはその「隣人愛」を実行したのです。
 パウロが「いいなり」になることによって、かえってパウロとエルサレム教
会との立場の違いが鮮明となってしまったのです。パウロは律法遵守にこだ
わっていません。よって、ユダヤ教当局からは、ますます狙われることとなる
のです。

(この項、完)



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