2017年08月06日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第75回「使徒言行録21章17〜26節」
(14/4/27)(その1)
17節「わたしたちがエルサレムに着くと、兄弟たちは喜んで迎えてくれた。」
いよいよ、パウロがエルサレムへ入城することとなりました。
しかし、イエスに倣って「王としての凱旋」をするはずが、「兄弟たちは喜ん
で迎えてくれた」とはいえ、何とわびしいことでしょうか。ロバもなく、群衆
の歓呼もなく、ホサナの合唱もありません。これで、パウロは、「イエスに
倣ってエルサレムに王としての凱旋をした」と言えるのでしょうか。
言えるのです。「兄弟たちが喜んで迎えてくれた」という事実だけで、パウ
ロが「イエスに倣ってエルサレムに王としての凱旋をした」ことは証明される
のです。
私たちがマタイによる福音書21:1〜11から学んだように、イエスは「終末
の王」として、エルサレムに入城されました。それは「世界を揺るがす出来事」
でした。それで「エルサレム中が騒いだ(10節)」のです。
しかし、マタイの表現は、つまり表していることは「象徴的表現」でして、
たとえその出来事が起こったとしても、多くの人はその意味を悟ることはでき
ないのです。
この同じ、イエスのエルサレム入城をルカによる福音書はどのように表現し
ているでしょうか。ルカは「イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたと
き、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らか
に神を賛美し始めた(21:37)」と表現しています。つまり、イエスのエルサレ
ム入城の意味を、多くの人は分からなかったかもしれないが、奇跡を見て「イ
エスが何者であるか」を知る弟子たちは、「わかって」神を賛美したのです。
パウロの「エルサレム入城」に際しても、同じことが起こりました。パウロ
の「エルサレム入城」は、イエスの場合と比較にならないくらい、ひそやかな
出来事でした。しかし、それでも「兄弟たち」と呼ばれる人々は、この入城の
意味を分かってパウロを「王の凱旋」をもって迎えてくれたのです。「異邦人
伝道」を達成し、キリスト教に新しい歴史を画した使徒として、です。
そして、「その翌日」、イエスが神殿に出かけられたごとく、パウロは、エ
ルサレム教会に赴きました。そこでパウロは何を見たのでしょうか。少し長い
ですが、18〜25節を次に引用しましょう。
18〜25節「翌日、パウロはわたしたちを連れてヤコブを訪ねたが、そこには長
老が皆集まっていた。パウロは挨拶を済ませてから、自分の奉仕を通して神が
異邦人の間で行われたことを、詳しく説明した。これを聞いて、人々は皆神を
賛美し、パウロに言った。『兄弟よ、ご存知のように、幾万人ものユダヤ人が
信者になって、皆熱心に律法を守っています。この人たちがあなたについて聞
かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、
「子供に割礼を施すな。慣習に従うな」と言って、モーセから離れるように教
えているとのことです。いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなた
の来られたことをきっと耳にします。だから、わたしたちの言うとおりにして
ください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。この人たちを連れ
て行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭を剃る費用を出してくださ
い。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなた
は律法を守って正しく生活している、ということがみんなに分かります。また、
異邦人で信者になった人たちについては、わたしたちは既に手紙を書き送りま
した。それは、偶像に献げた肉と、血と、絞め殺した動物の肉とを口にしない
ように、また、みだらな行いを避けるようにという決定です。』」
イエスのエルサレム入城後の動きを振り返って見ると、マタイとルカはその
日の中に、マルコは翌日、と日付は変わっていますが、神殿に行かれます。そ
こで神殿の現状をご覧になられたイエスは、いわゆる「宮きよめ」を実行され、
ご自分の立場と、ユダヤ教の立場が相容れないものであることを明らかにされ
ました。その後、ファリサイ派、そしてサドカイ派との論争を通して、ご自分
の立場をより明確にされ、そして、そのことにより、逮捕へと突き進んでいか
れました。パウロも、ここでもイエスに倣って「似た」経過を経て、逮捕へと
向かうこととなりました。
パウロの場合、まがいなりにも、エルサレム教会がありますから、イエスの
時と違って直接、いきなりユダヤ教と対峙しはしませんでした。しかし、最初
に、そのエルサレム教会とパウロとの微妙な立場の違いが明らかになる、とい
うところから、パウロの逮捕へと向かう歩みが始まりました。
入城の翌日、パウロはエルサレム教会を訪問します。そして「自分の奉仕を
通して神が異邦人の間で行われたことを、詳しく説明し」ました。「詳しく説
明し」と意訳されてしまっていますが、原語に忠実に訳すと、「各々一つずつ
導きだし」となります。
(この項、続く)
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