2017年06月11日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第71回「使徒言行録20章32〜38節」
(14/3/16)(その2)
(承前)

 イエスは弟子たちのために「弁護者(14:26はじめ)」を遣わしてくださいまし
た。弁護者とは何か、と言えば、「聖霊(14:26)」です。この弁護者は、迫害の
時に威力100倍、迫害の時にこそ「イエスを証してくださる」のです。
 そしてパウロはどうか。「長老(プレスビュテロイ)」たちに、「助け」とし
て何をプレゼントしようとしているか、と言うところから、今日のテキスト、
32節が始まります。
 パウロの場合、何でしょうか。そして、実は、ここがイエスとパウロで、決
定的に異なるところだったのです。
 パウロの場合、それは「神とその恵みの言葉」だ、と言うのです。それは、
どういう意味でしょうか。
 さて、日本語の辞書で「言葉」を引いて見ますと、@言語、A文句、Bこと
ばづかい、Cいいぐさ、とありました。そこで、日本語を母国語とする私は、
使徒言行録20:32を、日本語の聖書だけで読んだとき、「長老(プレスビュテロ
イ)」への助けとしてパウロが与えたのは、「一体、聖書の中のどの言葉なの
だろうか」と頭の中で探してしまいました。
 思いついたのは、詩編の23編とか、新約聖書で言えば「山上の説教」の中の、
八福の言葉、特に、マタイ5:11の「わたしのためにののしられ、迫害され、身
に覚えのないことであらゆる悪口をあびせられるとき、あなたがたは幸いであ
る。云々」の箇所です。みなさんだったらどこを思い浮かべるでしょうか。
 使徒言行録20:32を、そのような「励ましの言葉」と捉え、パウロは、「困
難の中にある、あるいはこれから困難に直面する「長老(プレスビュテロイ)」
にプレゼントしたのだ」と解釈することも可能ではあります。現に私はそう解
釈してきました。しかし、どうもそうではないようなのです。
 20:32で「言葉」と訳されている語の原語は「ロゴス」です。「ロゴス」は
「言葉」でもあると同時に、「理性」であり、「神」そのものでもあります。
そして、ヨハネによる福音書1:1以下の「ロゴス」論に見られるごとく、ここ
では「神そのもの」のことだったのです。
 すなわち、ここは「そして今、神、すなわち恵みの神にあなたがたを委ねま
す」と訳した方がよいし、実際そういう意味なのです。32節後半も「神は、あ
なたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせ
ることができるのです。」と訳すことができるのです。
これは一体どういうことなのでしょうか。
 神ご自身であられるイエスは、自ら聖霊を遣わすことによって弟子たちを助
けてくださいます。ですから、弟子たちは、ひたすら聖霊に、ということは、
イエスに頼っていけばいい、ということです。しかし、神ならぬパウロは、自
らに頼られても何もできません。「長老(プレスビュテロイ)」は、パウロに頼
ろうとしても、それは何の頼りにもならないのです。そうではなくて、エフェ
ソの「長老(プレスビュテロイ)」たちが、パウロと同じように、神にすべてを
ゆだねることによって、神の助けが与えられることをパウロは告げました。
 イエスとパウロの決定的な違いとは、いかに偉大な働きをなそうとも、パウ
ロもまた「罪人の一人」に過ぎない、と言うことです。後に続く者は、パウロ
に頼るのではなく、パウロと共に神に頼ることによって、「助け」を得ること
ができます。パウロは、その決定的な違いを告げたのです。
 さあこれで、心置きなく別れをづけることができる、と思いきや、パウロは
さらに33〜35節を語りたしました。

33〜35節「わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存
知の通り、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々の
ためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、
また、主イエス御自身が、『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた
言葉を思い出すようにと、私はいつもこの身をもって示してきました。」

この33〜35節は、一見「いいわけ」のようにも見えますが、いったい何なので
しょうか。
 実際、多くの人々が、旧約聖書サムエル記上12:3に倣って、そのように解釈
しています。すなわち、イスラエルにおいては、別れを告げる時、特に告別の
時、疑いがあったならば、自らの潔白を主張する慣習があった、と言うのです。
 そのような意味があったことも考えらない訳ではありません。Tコリント
9章において、パウロは、「福音を宣べ伝える人は福音によって生活の資を得
る権利をもつにもかかわらず、自分はその権利を用いなかった(14〜15節)」、
ことを述べています。告別の言い訳に似ています。が、これは、コリント教会
において、パウロに対する「そのような」誹謗中傷があったからです。
 パウロに、一生この汚名がかぶせられたならともかく、パウロにとって、こ
のテーマは決して「大きなテーマ」ではありません。

(この項、続く)



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