2017年05月21日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第70回「「使徒言行録20章25〜35節」
(14/3/9)(その1)

25節「そして今、あなたがたが皆もう二度とわたしの顔を見ることがないとわ
たしには分かっています。わたしは、あなたがたの間を巡回して御国を宣べ伝
えたのです。」

パウロの訣別説教の二回目です。
どのような流れで話が進んでいるのか、前回のところを振り返って見ましょう。
度々触れていますように、パウロは、「王の凱旋」の自覚をもってエルサレム
に向かいました。とは言え、自分が王に即位しようなどと言う意図が微塵も
あったわけではありません。パウロは、イエスに倣う者として、エルサレムに
凱旋しよう、と考えていたのです。
 イエスは、過越祭の時にエルサレムに入場され、その時、人々は、王の入城
の時の歓呼、「ホサナ」をもってイエスを迎えました。しかし、イエスは「苦
難の王」として十字架の死を遂げられてしまいました。が、神はイエスをよみ
がえらせ、天にあげ、「栄光の王」とされました。
 つまり、パウロも、十字架の死を覚悟してエルサレム上京をされたイエスに
倣って、エルサレム行をしようとしていたのです。
 死を覚悟されたイエスが、残された弟子たちに訣別説教をされたように、同
じく死を覚悟したパウロが、残された教会のリーダーに行った訣別説教が、使
徒言行録20:18〜36の説教なのです。
 私たちは、ヨハネによる福音書14:1〜16:23の、イエスの訣別説教と比較し
ながら、見ていく必要があります。
 父なる神と一つであられるイエスは、「わたしが父の内におり、父がわたし
の内におられることを、信じないのか(ヨハネ14:10)」と宣言され、いきなり
「わたしの掟を守りなさい14:21」」という本題に入られました。
 しかし、イエスに倣うとは言っても、イエス自身ではないパウロは、まず最
初に自分の立場を弁明しなければなりません。パウロが使徒であることと、今
回のエルサレム行が、パウロ自身の意図ではなく、神の意図であることを証明
しなければなりません。
 パウロが使徒であることはどうやって証明されるでしょうか。パウロ自身に
おいては、復活の主に出会って、「異邦人の使徒たれ」とのご指示を受けたと
いう体験でしょう(使徒言行録9:15)。
 しかし、そのことをどうしたら他人に明らかにすることができるのでしょう
か。できるのです。一つは、パウロが苦難を受けているということ。「苦難を
受けている」ことは、その人がキリストに倣っている証拠となるのです。
 しかし、「苦難を受けている」だけでは、その人が使徒である証明とはなり
ません。(その当時の)ユダヤ人から、圧迫、迫害を受けていること、これが、
彼が使徒、とりわけ、「異邦人の使徒」である証拠となったのです。
 第二に、今回のエルサレム行が、パウロ自身の意図ではなく、神の意図であ
ることはどうやって証明されるのでしょうか。
 パウロ自身においては、「聖霊の導きによる(20:22)」という体験を持って
います。しかし、他の人にそのことがどうやって証明されるでしょうかる
 この点についても、パウロが、「王になって権力を振るおう」などという思
いは微塵もなく、むしろ、「死を覚悟している(24節)」という姿勢から、それ
がイエスに倣う行為であることが証明されるのです。
 手間取りました。しかし、パウロがイエスに倣うものであることが明らかに
されて、ここから、イエスの訣別説教に倣ったパウロの訣別説教が始まるので
す。
 25節で自分が死を覚悟していること、イエスに倣う者であることをもう一度
宣言したうえで、自分が使徒であることをもう一度明らかにしたうえで、訣別
説教の本体は、26節から始まります。

26〜31節「だから、特に今日はっきり言います。だれの血についても、わたし
には責任がありません。わたしは、神の御計画をすべて、ひるむことなくあな
たがたに伝えたからです。どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配って
ください。聖霊は、神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会の
世話をさせるために、あなたがたを群れの監督者に任命なさったのです。わた
しが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んできて群れを
荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、
邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます。だから、わたしが3
年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こし
て、目を覚ましていなさい。」

 お気づきの方もいらっしゃると思いますが、パウロの言葉は無駄がなく、し
かも言い残したことがありません。私も、このように話せたらいいな、と羨望
をもってこの説教を読むわけですけれども、ここに記されているのは、「発言
録」ではなくて、「議事録」であるかも知れません。しかし、逆にそれだけに、
論理は明確です。

(この項、続く)


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