2017年05月14日

〔使徒言行録連続講解説教〕

(14/3/2)(その3)
(承前)

 しかし、できません。パウロだって使徒の召命を受けて使徒となったもので
す。しかし、コリント教会では、使徒の権威さえ疑われました(コリント二10:10
など)。パウロは、自分が使徒である弁明から始めなければなりません。
 もちろん、主イエスから直接に召命を受けたことが、パウロが使徒である根
拠です。
 でも、どうやってそれを証明したらいいのでしょうか。それは、自己の学識
や、業績を誇ることによって、ではなく、「土の器」としての自分をさらけ出
すことによって、です。すなわち、パウロの生涯を見ると、苦難ばっかりなの
です。苦難こそ、キリストの使徒である証明の第一です。
 しかし、苦難を受けているからと言ってそれだけで、キリストの使徒と言え
るのでしょうか。言えません。キリストのメッセージを伝えているかどうか、
が問題となります。そのことはどうやって証明されるでしょうか。どれだけの
数の異邦人改宗者を得たか、によってでしょうか。そうではありません。キリ
ストがユダヤ人の特権を奪われたように、パウロのメッセージもまた、ユダヤ
人の特権を奪うものであったかどうか、によってなのです。パウロは、19節に
言うように、ユダヤ人からのひどい迫害を受けました。実は、これが第二の証
明だったのです。
 神の言葉は、主イエス・キリストへの救いへの招きの言葉であると同時に、
救いの特権に安住しようとする者にとっては、「悔い改めを求める警告」でも
あるのです。私たちは、そのことを忘れてはなりません。
 次に、パウロは、説教の第2部として、これからの予定について触れます。

22〜24節「…そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。
そこでどんなことがこの身に起こるか、何もわかりません。ただ、投獄と苦難
とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり
告げてくださっています。しかし、自分の決められた道を走りととおし、また、
主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果た
すことができさえすれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」

 パウロがこれから何をしようとしているのか、については、前回の説教の後
半から今回の説教の前半にかけて詳しく触れました。「苦難の王に倣っての凱
旋」です。
 ここで触れられていることは、その計画が、「霊の導き」によるものである、
ということです。はっきりと確認されています。
 もう一度言いますが、わたしたちにも問われていることは、自分の利害か、
聖霊の指示か、という二者択一だ、と言うことです。
 ただ問題は24節です。パウロの具体的な仕事です。翻訳では、パウロの仕事
は、「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しする」というこ
とのみに見えます。つまり、説教が仕事だ、という訳です。
 ところが原文の構造はそうではありません。主イエスからいただいた使命は、
「行程」と「任務」を全うすることなのです。しかも、 「任務」と訳されて
いる語の原語は「ディアコニア」であって、「奉仕」という意味しかない語で
す。ここで言う「任務(奉仕)」は、「神の恵みの福音を力強く証しする」とい
うことではなくて、明らかに、献金を持っていくことです。そして、そして、
パウロが「行程」と「任務」を全うすることにより、「神の恵みの福音を力強
く証しする」ことになる、と原文には書かれています。
 どうしてこのような訳になってしまったのかわかりませんが、パウロは「自
分の行程を走りぬくこと」と「献金を持っていくこと」を同じ比重で、命を懸
けてするべき、大切なことと考えていたことがわかります。
 献金については、いろいろな受け止め方がる、とは思いますが、教会におい
ては、主イエスを証しする、宣教と同じ比重をもった業である、ということは、
わたしたちも忘れないようにしたいものだ、と
思います。

(この項、完)



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