2017年03月19日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第66回「使徒言行録20章1〜6節」
(14/2/9)(その2)
(承前)

 異邦人伝道ですから、偶像崇拝からの解放が最大の課題です。偶像崇拝から
の解放を訴えると、当然関係者からの迫害が予測されます。使徒言行録のエ
フェソ伝道の記録は、この種の迫害の物語で締めくくられています。しかし、
時の政治権力が健全であれば、すなわち「法の支配」に服しておれば、この種
の迫害は退けられる、というのが使徒言行録の締めくくりのメッセージでした。
 ところが、エフェソ伝道には、まだ使徒言行録の著者が書いていない重大な
ことがある、というのが、新約学者の定説です。
 それは、エフェソでの入獄です。フィリピの信徒への手紙1:13を見ると、
パウロは、この手紙を獄の中で書いていることが分かります。また、フィレモ
ンへの手紙もそうです(9節など)。それゆえ、これらの書簡は「獄中書簡」と
呼ばれてきました。
 それでは、パウロはどこの獄でこれらの手紙を書いたのか、と言えば、それ
は、エフェソしか考えられないのです。そけゆえ、使徒言行録にも、パウロの
手紙にも、エフェソでの入獄の記事が一切ないにも関わらず、エフェソでの入
獄が想定されるのです。
 仮に事実エフェソでの入獄があったとしたら、使徒言行録の著者は、なぜそ
の事実を書かなかったのでしょうか。フィリピでの入獄についてはあんなに詳
しい記録を残しているのに(16章)、です。
 それは、あくまでも推測の推測ですが、使徒言行録の著者は、エフェソでの
入獄という悲しい出来事があったとしても、ローマはまだ「神の敵」ではない、
デメトリオ事件を収めた書記官のような、公正な人物もいるので、期待したい、
という思いだったのではないでしょうか。「今のところ」書く必要がない、と
いう判断だったと考えられます。
 しかし、時代は、使徒言行録の著者の期待とは逆の方向へと進み、ローマは、
神に逆らう「バビロン」とみなされることとなってしまったのでした(黙示録
17:5)。が、使徒言行録の著者としては、黙示録の時代を想定しつつも、「今
は公正な権力に期待する」という姿勢を貫いたのです。
 さて、使徒言行録は、パウロのエフェソ出発のきっかけを「この騒動が収
まった後」と記しています。「この騒動」とは、一見すると「デメトリオ事
件」のようですが、今まで述べたように、それほど単純ではありません。用語
についてもそれほど単純ではないことが明らかです。「騒動」と訳されている
語ですが、原語は「ソルボス」という語です。この語は、騒動は騒動でも、単
なる騒動(tumult)ではなく、大騒動(clamor)を意味する語です。使徒言行録の
著者にとって、そしてパウロにとって「大騒動(clamor)」とは何だったので
しょうか。それは、実は、コリント教会事件であり、入獄でした。この「内と
外」の二大問題の解決をもって、パウロはギリシア本土へと旅立ったのでした。
 よって、このギリシア旅行におけるパウロは、第三伝道旅行においてのみな
らず、第一伝道旅行に出発して以来、最も平和な心境だったのではないでしょ
うか。
 この平和な心境において、パウロは、2つの大きな使命に、「前向きに」取
り組み、しかも、成就することができました。それは、エルサレム教会への献
金の募金活動と、ローマの信徒への手紙の執筆でした。

3節後半〜6節「パウロはシリア州に向かって船出しようとしていたとき、彼
に対するユダヤ人の陰謀があったので、マケドニア州を通って帰ることにした。
同行した者は、ピロの子でベレア出身のソパトロ、テサロニケのアリスタルコ
とセクンド、デルベのガイオ、テモテ、それにアジア州出身のティキコとトロ
フィモであった。この人たちは、先に出発してトロアスでわたしたちを待って
いたが、わたしたちは、除酵祭の後フィリピから船出し、五日でトロアスに来
て彼らと落ち合い、七日間そこに滞在した。」

 まず、パウロはマケドニア州に行き、その地方を巡り歩きました。マケドニ
ア州の教会と言えば、第二伝道旅行の際に立ち上げたフィリピとテサロニケと
ベレアの教会です。パウロはこれらの教会へ何をしに行ったのでしょうか。
「言葉を尽くして人々を励ました」、すなわち、牧会訪問が第一の目的です。
しかし、そればかりではありません。使徒言行録には触れられていませんが、
ローマの信徒への手紙15:25以下によれば、エルサレム教会への募金活動のた
めに行ったのでした。さらにUコリント9章によれば、この活動において、多
くの支援がなされたことが明らかです。

(この項、続く)



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