2017年01月22日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第62回「使徒言行録19章11〜20節」
(14/1/12)(その2)
(承前)

 その方法は、彼が身に着けていたものを触れさせる、という、きわめて呪術
的な方法でした。「手ぬぐい」と訳されている語、ラテン語から来た、いわば
外来語で正確な意味は分かりません。が、汗をぬぐうもの、今日でいう「バン
ダナ」をさすと考えられています。一方「前掛け」と訳されているもの、今日
でいうエプロン、ないしは「汗拭きタオル」の可能性もあります。
 いずれにせよ、霊能者の肌に触れたものにも「悪霊払い」の効果が期待でき
る、と言う信仰があるところで初めて意味ある行為ですので、くれぐれも、自
分の汗が染みこんだタオルやバンダナを、「悪霊祓いだ」とか言って人に押し
付けることのないようにしていただきたい、と思います。
 12節によれば、それなりの効果があったようです。また、11節の主語は、つ
まりこのことをなし給うのは神でしたから、効果は「偶像礼拝からの解放」に
まで及んだに違いありません。
 が、この悪霊払いは、さらに悪霊祓いプロパーにとどまりませんで、イエス
の名を、権威を高めることにさえ至ったのです。
 13〜16節「ところが、各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たちの中にも、悪霊
どもに取りつかれている人々に向かい、試みに、主イエスの名を唱えて、『パ
ウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる』と言う者があった。
ユダヤ人の祭司長スケワという者の7人の息子たちがこんなことをしていた。
悪霊は彼らに言い返した。『イエスのことは知っている。パウロのこともよく
知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。』そして、悪霊に取りつかれ
ている男が、この祈祷師たちに飛びかかって押さえつけ、ひどい目に遭わせた
ので、彼らは裸にされ、傷つけられて、その家から逃げだした。」
 この(部分の)物語は、お話しとしては面白いものですが、その意味となると、
なかなか理解しにくい物語です。が、それはこういうことです。
 まず、エフェソの町は、ギリシア文化の影響下にあるとは言え、小アジアに
あることには間違いありませんから、ユダヤ教の影響も受けていた、と言うこ
とです。その一例として、ユダヤ教徒の「悪霊祓い師」がここにも巡回して
回ってきました。「大祭司スケワ」とか、「7人の息子」とかは、単なる「芸
名」だと思われます。とは言え、「悪霊祓い師」としてそれなりの功績はあ
げていたことと思われます。ヨセフスは、「ソロモンのパワー」を身に帯びた、
つまり憑依させた「悪霊祓い師」が1世紀にいたことを記録しています。
 しかし、「悪霊払い」の世界も厳しい生存競争の世界でありまして、「本当
の権威」を身に着けていないと、逆に悪霊に払われてしまうのです。今日のこ
この物語は、そういう話なのです。「ソロモンのパワー」ではだめでして、
「イエスの権威」を、ただ真似するだけでなく、本当に身に着けていないと、
そこに偶像礼拝からの解放、すなわち「真の自由」の獲得はやって来ない、と
言うことなのです。
 この「悪霊払い」の失敗によって、イエスの権威か大いに高められました。
そして、そのことは、何と教会の悔い改めをもたらしたのです。実は、この後
が、本日のテキストの「メイン」です。

17〜20節「このことがエフェソに住むユダヤ人やギリシア人すべてに知れ渡っ
たので、人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いにあがめられるようになっ
た。信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、
魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。
その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった。このようにして、主の
言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」

 大いに恐れが抱かれたことはそのとおりだ、と思います。しかし、問題はそ
こから先です。まず、すでに教会員になっている人々の間で「悔い改め」、リ
バイバルが起こったのです。
 18節、「信仰に入った人」は、19:2と同じで、ただ信じたというだけでなく、
洗礼を受けて教会員になった人のことです。問題はその次。翻訳では「自分た
ちの悪行をはっきり告白した」と、「いや自分もクリスチャンなのに魔術にか
かわって、すみませんでした」になってしまっていますが、ここはそういう意
味ではありません。
 正確に訳すと「悔い改め、そして自分たちの悪行を告白した」です。クリス
チャンになったにも関わらず、この一連の出来事を見、聞きして「主イエスの
権威を、自分にとっての本当の権威としていない自分」に気が付いたのです。
それで、まず、その「罪」を悔いました。
 悔い改めは、生活の一新を生みます。自分も魔術に、主イエスならぬ者に権
威を認めた業にかかわってきたこと、具体的な魔術的業を告白し、あらためて、
新たな歩みに出発したのです。
 この教会の雰囲気が、マジシャンたちの悔い改めに通じたのではないでしょ
うか。エフェソで、偶像崇拝からの解放の道が一気に進んだのも、実は教会の
悔い改めがきっかけだったのです。
 こうして、教会が整えられていくことにより、教会自身の抱える問題に取り
組む力も与えられていくこととなったのです。

(この項、完)



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