2017年01月08日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第61回「使徒言行録19章8〜10節」
(14/1/5)(その3)
(承前)

 ここで、二度目の、第三伝道旅行の際の訪問の話となりますが、こうして改
宗者が多く出ました。しかし、建物のない集まりとは言っても、ユダヤ教の集
会であることには変わりありません。福音のユダヤ教との違いは明々白々とな
り、その噂は広がることでしょう。他の地域のシナゴグ当局者、ファリサイ派
が「是正」のために押しかけてくるのは、目に見えています。こうして、パウ
ロと、建物のない集まり内の「改宗者」は追放されることとなったのです。
 9節で、ファリサイ派が福音を非難した、その聞き手を「会衆」と訳してい
ますが、この訳は、シナゴグの建物があることを前提とした訳語です。もし、
ここで「シナゴグ」なるものが、建物のない集まりであるとすると、まわりに
いた人たちに、福音の「悪口を言った(正確な訳)」こととなります。建物のな
い集まりですから、正式な「追放」という手段は取られなかったかもしれませ
んが、公衆の面前で、一緒に歩むことはできないことが証明されてしまったの
です。
 さて、それでは、パウロが建物のない集まりであるところのシナゴグで伝道
している間、教会は何をしていたのでしょうか。答えは明々白々、主の日の礼
拝を守り、聖礼典を執行していたのです。
 パウロのエフェソでのシナゴグ伝道は、同じシナゴグ伝道に見えても、コリ
ント以前のシナゴグ伝道とは中身が違うのです。コリント以後は、伝道者は、
教会は、シナゴグに経済的に依存しているわけではありません。自立していま
す。ましてパウロはエフェソでもプリスキラとアキラと一緒ですから、テント
造りの職業に励んだことでしょう。エフェソでの拠点も確保していたに違いあ
りません。プリスキラとアキラの家かも知れません。そこで礼拝と聖礼典を守
り、主の日ではなくてサバト(土曜日)に行われるユダヤ教の集会で、パウロが
出張伝道をするのを支えていたのです。
 それでは、建物のない集まりからパウロらが追放されてから、何が変わった
のでしょうか。それは出張伝道先が変わっただけです。「ティラノという人の
講堂」での出張伝道が始まったのです。「ティラノという人の講堂」とは、一
体どういうところなのでしょうか。
 「講堂」と訳されている語の原語ですが、「スコレー」です。ご存知の方も
多いと思います。「余暇」という意味の語です。が、「余暇」は「余暇」で
あっても、その間、ギリシア人はただなにもしないで漫然と過ごしていたわけ
ではありません。その間、学問をしたり、政治をしたり、特権階級にのみ許さ
れた知的活動に従事していたのです。よって、「スコレー」は「スクール」、
すなわち、「学校」の語源となったのです。余談に走りますが、「学校」とは、
そもそもは、人が「余暇」を与えられて学問に励むためのところなのです。
 と言うことで、「スコレー」は学問の行われる場所、すなわち「学校」の建
物と言う意味も獲得しました。「講堂」と訳されていますが、これは「学校」
の建物です。それを与えられて、「学校」の建物ですから、いつ使っても大丈
夫、パウロは「毎日(9節)」伝道活動に従事したのです。
 ある(正典とされなかった)写本には、「午前11時から午後4時まで」と書き
添えられています。地中海性気候のエフェソでは、当時から「昼寝の時間」が
あったのでしょう。それが、「余暇」として、学問に、そして伝道に役立ちま
した。
 こうして2年に亘る「スコレー伝道」は著しく進展し、アジア州中の人が、
キリストの福音を聞く、という素晴らしい成果をもたらすこととなりました。
 しかし一方、この時期、使徒言行録には一切触れられていないのですが、パ
ウロとコリント教会との関係は最悪でした。コリントの信徒への手紙は、すべ
てこの2年3か月の間に書かれたと考えられています。コリント教会との厳し
い関係については、次回以降、触れられる時に触れさせていただきます。
 伝道は、華々しい成果と、どん底の苦難と実は裏腹なのです。この不思議な
神の導きの下で、神のみ業は進められていきます。

(この項、完)



(C)2001-2017 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.