2017年01月01日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第61回「使徒言行録19章8〜10節」
(14/1/5)(その2)
(承前)
ここで早速本日のテキストに少し入らざるを得ないのですが、本日のテキス
トによれば、パウロを迎えるシナゴグに、「神の御心ならば、また戻って来ま
す」とあえて別れを告げるパウロを、「もうしばらく滞在するように」引き留
めた熱意のかけらもありません。3か月にわたって、シナゴグで教えたにも拘
わらず、パウロの教えにますます心を傾けるどころか、したことと言えば、パ
ウロに対するシナゴグからの「追放」でした。エフェソのシナゴグも「普通の
シナゴク」に過ぎなかったのです。
ついでですが、「では、20:19〜21の記事は何なのだ?ウソなのか?」とい
う疑問に私たちは改めて、もう一度行きつくのですが、それは、12月8日の説
教で申し上げたように、ルカの「創作」という訳ではなく、エフェソ伝道の結
果、パウロと、シナゴグとではなく「教会」との間に生じた親密な関係をここ
に書いてしまった、と考えられます。資料から明らかです。でも、ルカは、な
ぜ第三伝道旅行の成果をここに書いてしまったのでしょうか。パウロに、第二
伝道旅行の際に立ち寄った時から、「この伝道は成功する」という予感があっ
たことを表したかったのかもしれません。
結局、パウロのエフェソでのシナゴグ伝道は、真実のところ、どうだったの
でしょうか。私たちの知りたいところです。
さて、次の問題ですが、私たちは、「エフェソには、すでに教会ができてい
た」ということを知っています。プリスキラとアキラです。二人は、パウロが
アンティオキアに戻っている間、伝道に励みました。突如「彗星のごとく」現
れた伝道者アポロを教育して、「自己流」ではなく、キリストの十字架と復活
の体験に立つ伝道者に仕立て上げたのはこの教会です。
さらに、「バプテスマのヨハネこそメシアである」と信じるグループの人々
を多く「キリスト者の群れ」の中に導きました。その中には、「聖霊」を、し
かも「洗礼において、すべの者に聖霊が与えられること」を知らない者がいた
のですが、それらの人々すべてを、パウロの指導の下、再洗礼へと導きました。
きわめて教会的な礼典が、既に行われていたのです。
それが、今日の記事ですと「バック・トゥ・ザ・フューチュア」ではなく、
「バック・トゥ・ザ・原点(スターティングポイント)」です。パウロが、初め
て、「教会」なるものの原型としか言いようもありませんが、ともかく「教会」
をティラノと言う人の講堂で始めたことになっているのです。プリスキラとア
キラが始めた教会はどうなったのでしょうか。今日の記事は、プリスキラとア
キラとが読んだら怒り出しかねない記事です。
以上二点、通常の開拓伝道とは違うはずだったにも拘わらず通常の開拓伝道
と同じであるかの如くに描かれている「パウロのエフェソ伝道」について、そ
の真実を、少ない資料からではありますが、探ってみることといたしましょう。
まず第一に、パウロのエフェソのシナゴグでの伝道がどうであったか、とい
う問題です。
この点に関しては、まず、エフェソのシナゴグは、「シナゴグとしては、ご
く特殊であった」ということをわたしたちが知る必要がある、と言うことです。
当時エフェソには多くのユダヤ人が住んでいました。それは、他の文献から
明らかです。しかし、考古学的調査によれば、それは、古代エフェソ都市を総
なめするものであるにも関わらず、シナゴグ跡が見つかっていないのです。さ
らに、発見されたもっとも古いユダヤ教碑文は2世紀のものなのです。
このことは何を意味するでしょうか。パウロがエフェソを訪ねたとき、実は
シナゴクは全くなかったか、もしあったとすれば、建物のない集まりであった
可能性が高い、と言うことなのです。建物のない集まりであったとして、建物
のない集まりであれば、組織は比較的自由だったでしょう。「専任」の職員は
いりません。その集まりには、がちがちのファリサイ派ばかりでなく、バプテ
スマのヨハネをメシアと信じるグループもいたのではないでしょうか。
その自由な雰囲気の中で、パウロは自由に大胆に神の国のこと、福音の全体
を、語ることができたのではないでしょうか。パウロが、第二伝道旅行の帰り
の立ち寄りに得た「よい感触」とはそれだったのです。
(この項、続く)
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