2016年10月16日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第56回「使徒言行録18章5〜11節」
(13/11/24)(その2)
(承前)
一方シラスは、ベレアに止まった(17:14)以降の消息は途絶えていますが、
5節によれば、やはりマケドニア州にいたらしいのです。マケドニア州の教会
(伝道地)と言えば、フィリピとテサロニケとベレアです。この3教会を回っ
て牧会をしていたのでしょう。しかし、シラスの活動は牧会に止まるものでは
ありませんでした。Uコリント11:9によれば、パウロはコリントにいる時にマ
ケドニア州から来た兄弟たちに金銭的必要を満たしてもらったことを記してい
ます。パウロの活動を支える献金を集めていた、と考えられるのです。
シラスとテモテはパウロに幾許かの献金をもたらしました。それでパウロは
仕事を休んで、しばし伝道に専念することができたのです。
とは言え、シナゴグから完全に独立するだけの蓄えはまだない。それゆえ、
その活動はシナゴグ内に止まっていました。いつになったら本当にシナゴグか
ら独立できるのでしょうか。ところが、この大事業はパウロが思いもよらない
仕方で成し遂げられることとなったのです。
6〜8節「しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を
振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わた
しには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、
神をあがめるティオティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣
にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、
コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、バプテスマを受けた。」
パウロのシナゴグからの独立、キリスト教会の本当の意味での成立は、ルカ
は婉曲な表現を使っていますが、「パウロの会堂追放」という衝撃的な出来事
をもって成し遂げられることとなりました。
パウロは、伝道に専念できる嬉しさのあまり、一生懸命にやりすぎたので
しょう。これまでにないほど激しいユダヤ人、ユダヤ教徒の反感を買いました。
「反抗し」と、とても優しく訳していますが、原語は「ブラスフェームーン
トーン」と書かれていまして、『冒?する』という意味の語です。パウロの説
く教えが、ユダヤ教徒からすると、「神への冒涜」と受け取られた、というこ
とを意味します。イエスがキリストである、というメッセージが「神への冒涜」
としてはっきりと受け止められた、ということです。こうなると、今までは、
キリスト教も「ユダヤ教の一変種」と受け取られてきたかもしれませんが、こ
れからはそうはいきません。ユダヤ教から見れば、異端としてシナゴグ追放と
いう処分にせざるを得ないこととなってしまったのです。
シナゴグから追い払われたパウロらは、「象徴行動」をもって、「ユダヤ教
徒こそ、冒涜の徒である」というメッセージを残してシナゴグを去って行った
のです。
啖呵を切ってシナゴグを出ては来たものの、パウロらは一体どこへ行ったら
よいのでしょうか。困り果てたパウロらに救いの手が差し伸べられました。名
前からして明らかにローマ系ですが、ティオティオ・ユストという人が、何と
シナゴグの隣の家を提供してくれた。ここにユダヤ教シナゴグと、キリスト教
会とが、隣同士で張り合う時代が始まったのです。一見どう見ても、キリスト
教会不利ですが、神は会堂長のクリスポ一家ですとか、コリントの多くの人々
ですとか、有力な信徒を与えてくださり、ここにシナゴグから独立した、そう
いう意味では「本物の教会」としての「コリント教会」の基礎が築かれたので
す。
しかし、パウロらがこんなに苦労して築いたコリント教会の内部はどうか、
というと、コリントの信徒への手紙を見ればわかるとおり、がたがたでして、
パウロの苦労はまだまだ続きます。
そんなパウロを励ます意味合いもあって、キリストご自身がパウロの夢の中
にお顕れになられまして、励ましてくださいます。
9〜11節「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。
語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを
襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』
パウロは1年6か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を伝えた。」
翻訳では分かりにくいですが、ここには「神顕現」を表す言葉がちりばめら
れています。「恐れるな」は、申命記31:8を始め、神が共におられる証です。
「わたしは…いる」は神ご自身がお顕れになられる際の「決まり文句」です
(出エジプト記3:12など)。
神がお顕れになられるなどということはめったにあることではありません。
パウロはこの幻をもって、今のコリント伝道が神の救済の歴史においていかに
重要な出来事であるか、を知り、神ご自身がこのことに本気で取り組んでおら
れることを知って、安心して前へ進むことができたのです。
シナゴグから独立した教会は、たどたどしい歩みながらも、一歩を踏み出す
ことができました。
(この項、完)
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