2016年09月11日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第54回「使徒言行録17章32〜34節」
(13/10/27)(その1)
32〜34節「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、
「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。それ
で、パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者
も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員のディオニシオ、またダマリ
スという婦人やその他の人々もいた。」
パウロのアレオパゴスでの「演説」ないし「弁論」の結果が、本日のテーマ
です。
この「演説」ないし「弁論」が、「演説」なのか、それとも「弁論」なのか、
という問題は前回も触れ、そして、断定はできないけれども、限りなく「弁論」
に近い、すなわちこの場は「裁判」の場である、という前提で、パウロの「演
説」ないし「弁論」を読んでまいりました。が、この問題は、後でもう一度触
れることといたしまして、この「演説」ないし「弁論」のミソをもう一度振り
返るところから話を始めましょう。
このパウロの「演説」ないし「弁論」は、「キリスト教をギリシア哲学に
よって説明した最初のもの」などとよく言われます(井上洋治)。しかし、実
際は、はっきり言ってしまえば、違います。そもそも、この「演説」ないし
「弁論」は、アテネ人の偶像崇拝を責めるものです。「真の神に立ち帰れ」と
いう説教です。
で、そのアテネ人の偶像崇拝を責めるに当たり、パウロは第一部(24〜25節)
および第二部(26〜27節)では、旧約聖書をもって、アテネ人の偶像崇拝を責
めました。ユダヤ教の伝道者がしたであろう説教と一緒です。すなわち、第一
部では、神は「創造主」であられるから、世界万物を造ったし、また造ること
がお出来になるのであって、人間の手で造った神殿に住まわれたり、神殿で仕
えてもらわなければ生きられないような方ではなく、神殿での偶像礼拝は無意
味だ、ということを言っています。確かにそのとおりです。人間が造る偶像は
結局は「像」でして、神ではありません。生きた神への礼拝が求められます。
第二部では、パウロは「歴史を支配される神」について語っています。これ
も旧約聖書からです。民族の居場所を決めたり、季節を定めたり、神は歴史の
中で働いておられる、ということです。表面を見ているだけでは気がつかない
かもしれませんが、「求めさえすれば」歴史の中に神を見いだせるのであって、
「像」を通して神を求めよう、というのは間違ったルートだ、ということです。
歴史の中に神を求める礼拝が必要です。
ところで、ここまでの話でしたら、アテネ人は以前に聞いたことがあったか
もしれません。ユダヤ教の伝道者をとおして、です。そして、多くの者、いや、
ほとんど全員と言ってもよいかもしれませんが、反発し、受け容れなかったこ
とでしょう。なぜなら、アテネ人は、旧約聖書を知りませんから、世界を造ら
れた神を、歴史の出来事の中で拝む、などという礼拝方法は別世界のことだっ
たからです。アテネ人はそれについて行けません。アテネ人にとっては、神は
あくまでも「像」を通して拝むものでした。そして、ユダヤ教の伝道者は、し
ばしば「異なる神々を導入しようとする者」として訴追されたのではないで
しょうか。
ここまででしたら、パウロも「ユダヤ教の伝道者の一変種」に過ぎなかった
のですが、ゆえに、訴追されて場合によっては「死刑」にされることもあり得
たのですが、第三部、28〜29節で「あっと驚く大逆転劇」を演じて見せたので
す。
古代ギリシアは「汎神論」と言いますけれども、「どこにでも神はいる」と
考える世界です。日本と同じです。「いわしの頭」も信心の対象になるのです。
まして人間はもちろんのこと、「神様、仏様、稲尾様」になるのです。ギリシ
アでも、人間は「神の種」を宿しているから、それゆえ、人間は「神の子」、
(「子」とは、「親の遺伝子を受けた者」との意)、と考えるのです。
そのギリシアの考えを典型的にあらわしている、ストア派という哲学グルー
プの人が書いた「詩」をパウロは引用しました。主旨は「人間は『神の子』で
ある」です。「神と等しいものになれる」ということです。聞いていた人は、
「おなじみ」の詩が出て来たので、「あれっ」と改めて耳を傾けたことと思い
ます。で、パウロが何を言いたいか、というと、「神は人間によく似ているの
だから、鉱物の像、偶像のことです、を拝むのはおかしい。生きた人間のよう
な神を拝め」という訳なのです。
アテネ人の反応は、後で触れることといたしましょう。が、もしも、この場
にユダヤ人、ユダヤ教の伝道者がいたら、パウロの「演説」ないし「弁論」の
第三部を聞いて、どのような反応を示したでしょうか。第一部、第二部につい
ては、「ふんふん、そのとおりだ」と肯いていたはずなのですが、第三部を聞
いた途端、烈火のごとく怒り出し、今度は、ユダヤ教徒の手でパウロを死罪に
しようとしたことでしょう。なぜなら、「人と神とが同じ」などと言うことは、
「決して赦されることのない冒?」だからです。「ユダヤ教徒による訴追」の
記載がないということは、この場には、ユダヤ教徒がいなかった、ということ
なのでしょう。
(この項、続く)
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