2016年09月04日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第53回「使徒言行録17章22〜31節」
(13/10/20)(その3)
(承前)

 第二部は、25節の終わりで、神が人に「命と息と、その他すべてのもの(こ
の3つは、人が生きる上で必要なものすべてを表す)」をお与えになったこと
を受けて、神が、一人の人からすべての民族を起こし、住まわせ、住むべきと
ころの境界を定め、季節を定められたことが主張されます。ですから、求めさ
えすれば神を知ることができるのであって、偶像礼拝は必要ない、ということ
です。
 皆さま、ここまで読んできていかがでしょうか。私たちに大変なじみのある
言葉で語られているのではないでしょうか。そうです。ここまでは、すべて旧
約聖書の言葉、ユダヤ教とおなじ言語、言い方で、パウロは語って来たのです。
 前回触れましたように、ここまでは、パウロはユダヤ教と共闘してアテネ、
ということはヘレニズム世界の偶像礼拝と戦ってきたのです。
 しかし、ここから先、パウロはユダヤ教と決別しまして、何と、ギリシア思
想を援用して、「キリスト教の立場」から偶像礼拝批判を繰り広げることとな
ります。
 第三部に入りますが、27節後半の、神がわたしたち人間の近くにおられると
の言葉を受けて、この「思想」は全く旧約聖書のものです(たとえば詩編145:18)、
パウロはストア派の二人の詩人の詩を引用します。最初の引用は、エピメニデ
スという人からのもの、後の引用はアラトゥスという人からのものです。それ
らの引用を受けて、29節で、パウロは人間を神の「子孫」と定義し、だから
「偶像」を作るのはおかしい、と偶像礼拝、いや偶像をつくること自体を否定
しています。
 皆さま、この部分を読まれてどう思われたでしょうか。
そうです。ここからは、はっきりとユダヤ教と決別しているのですが、皆さま、
お分かりになられましたでしょうか。
 旧約聖書で見るかぎり、人間は神に造られた者ですが、だからと言って「神
の子」と呼ばれることはありません。あくまでも被造物です。「神の子孫」と
は、「神の子」と同じ意味です。ただ、イスラエルのみが、特別の恩恵によっ
て「神の子」と呼ばれることがあるのみです。
 一方、ギリシア思想においては、旧約聖書とは全然違う文脈において、人を
「神の子」と呼びます。それは、汎神論的発想から、人は全て「神の種子」を
宿している、という意味で「神の子」「神の子孫」なのです。
 パウロも、汎神論ではなく唯一神信仰を持った人です。そのパウロが、ここ
で大胆にもギリシア思想を引用して「わたしたちは神の子孫(子)」です、と
言う。これは一体どうしたことなのでしょうか。
 皆さまお分かりのとおり、ここに、この『説教』のミソ、があったのです。
理由もお分かりでしょう。パウロは説明しては、いや言ってさえおりませんが、
キリスト教になって、イエスの贖いの業の成就により、すべての人が「神の子」
とされる事態が生じたのです。「救いの出来事」です。そして、「結果的に」
ギリシア哲学で言う「人は神の子孫」と同じ事態が生じたのです。
 この第3部においては、パウロはキリスト教をギリシア哲学の言葉で説明しつ
つ、しかもキリスト教の立場で偶像礼拝批判を行ったのです。
 パウロは、特にこの第3部の「弁明」によって、立場を固くしたばかりではあ
りません。この「弁明」によって、キリスト教伝道の新しい境地さえ開きまし
た。キリスト教伝道は、ギリシア思想とも共通の言語で語りつつ、しかも、福
音のメッセージを語ることなのです。
 ここまで手ごたえを確認したところで、パウロは「悔い改めの勧め」をもっ
て説教を締めくくります。

30〜31節「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、
今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。それは、先
にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお定めになった
からです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確
証をお与えになったのです。」

 偶像礼拝批判に戻ります。裁き主の派遣と、悔い改めの勧め、はユダヤ教と
共通するメッセージです。しかし、この方の死と復活の知らせは、ユダヤ教徒
ならずとも、蛇足のように思われるかもしれません。
 しかし、特に第3部の論証、人間は「神の子」であるがゆえに、偶像は無意
味である、との批判は、イエスの贖いの出来事をもって初めて意味をなすもの
です。
 偶像礼拝からの悔い改めが求められるのですが、イエスのゆえに、より深い
悔い改めが求められることとなったのです。
 ここでパウロは自由の身とされたのでしょうか。そして聴衆の反応はどう
だったのでしょうか。次週はその辺のところから入っていくことといたしま
しょう。
 私たちにも、イエスのゆえにより深い悔い改めが求められていることを忘れ
ずに歩んでまいりましょう。

(この項、完)



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