2016年08月28日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第53回「使徒言行録17章22〜31節」
(13/10/20)(その2)
(承前)

 前回申し上げましたように、その場にいなかった、著者のルカは「「民会」
での演説」だと捉えています。ですから、21節のような解説をつけたのです。
すなわち、「民会」で、「この男、何か面白そうなことを言っているじゃん。
ちょっと聞いてみようぜ。」という興味本位の状況で、パウロは話している、
という訳です。
 ところが、いわゆる「空気」、というか、パウロを取り巻く実際の状況はそ
うではないのです。18節ですけれども、パウロの討論相手は、パウロのことを
「彼は外国の神々を宣伝する者らしい」と言いました。この言葉は、あのソク
ラテスがアテネのアレオパゴスで訴追され、死刑となった時の罪状そのもので
した。すなわち、ソクラテスは「ポリスの神をあがめず、外国の新しい神(ダ
イモニオーン)を導入した」カドで訴追されて、アレオパゴスの裁判で死刑を
言い渡されたのです。
 断定はできませんが、ここは「裁判」の可能性がかなり高い、と考えられま
す。私たちも「裁判」の状況を前提として、パウロの弁論」を読んでいきたい、
と思います。
 皆さんもパウロの立場に立っていただきたいのですが、相手が自分の話を聞
こうとして集まってくれている場合と、自分を訴追しようと集まって来ている
場合とで、その第一声は全く違うのではないでしょうか。好意で集まってくれ
ている状況では、相手をほめるところから話を始めることでしょう。しかし、
逆に訴追されている場合には、訴追した相手を責めるところから話を始めるの
ではないでしょうか。
 パウロの場合も全く同じです。パウロは(翻訳で言えば)「あなたがたは
『信仰のあつい方』である」という言葉から話を始めました。この言葉は褒め
言葉なのでしょうか、あるいは相手を非難する言葉なのでしょうか。翻訳は
「褒め言葉」派です。それで『信仰のあつい方』という褒め言葉を用いて訳し
たのです。が、実は原語の「デイスィダイモメノー」という語は、善い意味と
悪い意味と両方の意味を持つ語なのです。善い意味では、「敬虔な」とか「宗
教的な」という意味になります。その用例は多くあります。悪い意味では「迷
信深い」という意味になります。何をするにも、「何かたたりがあるのではな
いか」と恐れ、びくびくする様を言います。これも多くの用例があります。皆
様、どちらだと思われますでしょうか。
 もうお分かりのとおり、これは言葉そのものから決定することはできず、パ
ウロがここで相手を褒めているのか、あるいは責めているのか、で変わってく
る、といことです。つまり、パウロの話が「民会」での演説なのか、「裁判」
における「弁明」なのか、で変わってくる、ということです。そして、ここは
「裁判」の可能性が高いのですから、パウロは相手を責めており、この言葉を
「悪い意味」で使っている、という結論が導き出されるのです。パウロはここ
で、アテネの人々を『信仰のあつい方』と言って褒めたのではなく、あなたが
たは「迷信深い」と言って責めたのです。だとすると、皆様のこの箇所の読み
方もずいぶん変わってくるのではないでしょうか。
 よって、ここからの文章(弁明)は、アテネ人の「信仰深さ」を褒めるもの
ではなく、その「迷信深さ」を責め、偶像崇拝を批判するものとなっていくの
です。結局16節のテーマに帰っていくのです。
 アテネの町に「知られざる神に」と刻まれた祭壇をパウロは見つけた、とパ
ウロは言います。しかし、現在のところ、そのような碑文は、アテネでは発掘
されておりません。しかし、ペルガモ街道では「知られない神々に」と記され
た碑文が発見されています。複数形です。パウロが見た碑文もおそらく複数形
だったのではないでしょうか。アテネでは、アゴラや隣接した建物を建設する
際に、多くの墓が破壊された、と伝えられています。「知られない神々に」と
いう碑文は、もしあったとすると、その墓に葬られていたヒーローを祀るもの
だったのではないでしょうか。もちろんそのたたりを畏れて、です。
しかしパウロは「知られない神々に」という碑文を「知られざる神に」という
単数形にすり替えます。そして、知識を誇るアテネ人が まだ知らない神があ
ること、そして、その礼拝の仕方は、たたりを畏れての礼拝、偶像礼拝ではな
く、真の礼拝であるべきことを、知らせようとするのです。
 そして、24節〜30節で、その「新しい神」の紹介と、偶像崇拝批判とが繰り
広げられることとなります。
 三部に分かれます。第一部、24節〜25節では、その神が天地、世界を造られ
た神であられること、ゆえに、手で造った神殿にはすまれないこと、また人間
の奉仕(仕えるの原語は「セラピー」、「癒し」の意)を必要としないことが
言われます。偶像礼拝で高価な神殿、高価な犠牲が献げられることが批判され
ます。

(この項、続く)



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