2016年08月21日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第52回「使徒言行録17章16〜21節」
(13/10/13)(その3)(承前)

 次に、そこでの議論の内容ですが、パウロの主張は、書かれてはいませんが、
「偶像礼拝をやめて、真の神に立ち帰れ」という内容であったことに間違いは
ありません。この議論においては、必ずしもイエスの名を出す必要はありませ
ん。その点、ユダヤ教徒と共通の言語で語ることができます。実際、22節以下
のパウロが語ったとされる説教においては、イエスの名は一度も出てきません。
ですから、17節の「パウロが、イエスと復活について告げ知らせていた」がゆ
えに、広場に集まっている人々が、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろ
うか』とか『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』という反応を示したとい
う叙述は不思議です。最も、クセノフォンの「ソクラテスの思い出」によれば、
ソクラテスも、「ポリスの神をあがめず、外国の新しい神(ダイモニオーン)
を導入した」カドで訴追されていますので、「外国の新しい神(ダイモニオー
ン)を導入した」は、アテネにおいて『邪魔者』を排除するときの「常套手段」
だった可能性があります。
 詳細は不明ですが、このようにして、明らかに反感を買ったパウロは、アレ
オパゴスへ「連れて行かれ」ました。しかし、原文は「捕えて、連行され」と
訳すことも可能です。アレオパゴスは「評議所」とも訳されます。アテネの市
民が「民会」を開き、意思決定を行うと同時に、裁判も行われるところです。
パウロは「民会」で弁明のチャンスを与えられたのか、あるいは裁判にかけら
れたのか、その判断は悩ましいところです。が、パウロに向けられた反感を考
えると、「裁判」の可能性がかなり高いのではないでしょうか。ルカは、「す
べてのアテネ人やそこに在留する外国人は、何か新しいことを話したり聞いた
りすることだけで、時を過ごしていたのである」という21節の記述をもって、
「裁判ではない」ことを示唆します。が、ここはルカが「ファストハンド」で
書いているのではありませんから、ルカがその場の「状況」を間違って解釈し
た可能性があります。いずれにしても、もし裁判にまでは至らなかったとして
も、かなりそれに近い厳しい雰囲気の下で始まったパウロの弁明です。
 が、ここでパウロは「あっと驚く、逆転ホームラン」を撃つこととなります。
その内容については次回。本日は、パウロが、「逃亡者」として行ったアテネ
で、いくつかの新たな伝道のヒントを与えられたことで、本日は止めておきま
しよう。「逃亡者」であるがゆえに与えられた恵みもあるのです。神様は、ど
んなところでも、どんな状況の中でも、必ず実りを与えてくださるのです。主
に従う者は、手ぶらで帰されることはありません。

(この項、完)


第53回「使徒言行録17章22〜31節」
(13/10/20)(その1)

22〜29節「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネの皆さ
ん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは
認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、
「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あな
たがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。世界
とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、
手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあ
るかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に
命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。神
は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、
季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求
めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことが
できるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離
れてはおられません。みなさんのうちのある詩人たちも、「我らは神の中に生
き、動き、存在する」「我らもその子孫である」と、言っているとおりです。
わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の考えで造った金、
銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。』」

 本日は、パウロによる、アテネのアレオパゴスでの「演説」ないし「弁論」
について、じっくり見ていくことといたしましょう。
 さて、この「演説」ないし「弁論」は、一般には、「ギリシア哲学とキリス
ト教と出会い」などとも言われています(井上洋治など)。そのとおりです。
しかし、よく読んでみると、ここで学べることはそれだけではありません。こ
こには、キリスト教の伝道の、異邦人伝道の、要諦が込められているのです。
その点も読み取ってまいりましよう。
 この説教を読み取るポイントは、実は22節にあります。アテネにおけるアレ
オパゴスというところは、前回も申し上げたように、「評議所」とも訳され、
アテネの市民が「民会」を開き、意思決定を行うと同時に、裁判も行われると
ころです。アレオパゴスの真ん中で「立った」パウロが、「民会」での演説で
立ったのか、あるいは、「裁判」における「弁明」で立ったのか、そのどちら
であるか、で「演説」ないし「弁論」の意味は全く違ってくるのであります。
皆様は、どちらだ、と思われますでしょうか。

(この項、続く)



(C)2001-2016 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.