2016年07月24日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第51回「使徒言行録17章10〜15節」
(13/10/6)(その2)

(承前)
 「本物の異邦人対象の異邦人伝道」、そして「ローマ(帝国)での伝道」は、
フィリピ伝道をもって始まりました。これは、実はパウロらにとっては未体験
の分野でしたので、彼らは日々一方で期待に燃えつつ、もう一方では不安を抱
えつつ、フィリピでの伝道の日々を過ごしていたことでしょう。案の定、パウ
ロとシラスとは捕えられ、鞭打たれ、牢に入れられる、という過酷な体験も経
験しました。しかし、もう一方で「地の揺らぎ」とともに神がお顕れになられ
る、というすばらしい出来事にも遭遇いたしました。
 こうして、フィリピ伝道で形成された、四つの「ローマ(帝国)での伝道」
のパターンが以下のとおりなのです。
1.偶像礼拝からの解放
2.イエス・キリストの名による「悪霊祓い」
3.「カミ(大いなるもの)への畏れ」を言わば「窓口」として、主イエスを
  信じる信仰へと導かれる。
4.「ローマの法」に則って伝道が進められるべき。
 フィリピ伝道の成功を受けて、この四つのパターンが、テサロニケ伝道にお
いて試され、確認されることとなりました。
 このように重要な意義をもったテサロニケ伝道だったのですが、使徒言行録
の著者であるルカがフィリピに止まったらしく、すなわちパウロの「同行者」
から外れたため、その叙述は、フィリピ伝道の記録に比べて精彩を欠きます。
が、それでも、前項1〜3をひっくるめてですが、ユダヤ教を通しての聖書の
勉強によってではなく「思いもよらない神の大きな働き」によって多くの改宗
者が与えられたことが示唆されています。
 さらに、テサロニケ伝道においては、4が強く確認されました。テサロニケ
においては、現地のユダヤ人、ユダヤ教徒が、パウロら「クリスチャン」を
「この者たちは、世界を騒がせ、皇帝の勅令に背いて『イエスという別の王が
いる』と言っている」と言って、ローマの官憲に訴えました。しかし、ローマ
の官憲は、この訴えを取り上げませんでした。パウロら「クリスチャン」は、
ユダヤ教徒が受けてきたこの訴追に「当てはまらない」ことをここ、テサロニ
ケで証明したのです。前回も述べたように、ローマ帝国が「皇帝礼拝」を法的
に強制するようになると、「クリスチャン」は「ローマの法」ときびしく対峙
することとなりますが、それは後の時代のことです。
 こうして、現地のユダヤ教徒との葛藤という火種は残しつつも、テサロニケ
伝道は成功裏のうちに終了し、「さあ次はアテネ」というところなのですが、
パウロら一行は、ここで一息入れ、ベレアでの伝道に従事することとなります。
本日はその部分です。
 ベレアという町についてですが、巻末の地図8を見ていただければわかると
おり、テサロニケの西南西72キロの山間にある町です。キケロという人によれ
ば、この町は「街道から外れた、城壁に囲まれた町」でした。しかし、ルキア
ノスという人によれば、大きな、人口の多い町でした。しかし、この町はフィ
リピのような植民都市でもありませんし、テサロニケのような自由都市でもあ
りません。なぜ、パウロらがこの町へ行ったのか、今までの伝道方針、「ロー
マの都市」へ行く、という伝道方針からすると理解不能です。が、10節を読め
ば一目瞭然、ユダヤ人の迫害からパウロらを守るために、兄弟たち―教会のメ
ンバーが二人を「ここまで行けば大丈夫だろう」と送り出した「逃れの町」
だったのです。
 しかし、パウロは、夜通しの逃避行にも拘わらず、ベレアにつくと直ちにユ
ダヤ人の会堂、シナゴグへ入り、宣教活動を行いました。ユダヤ人の迫害を逃
れて、兄弟たち、教会のメンバーの協力、いや必死の勇気ある行動の助けを得
て、逃れて行った、いや逃していただいたベレアの町で、パウロらは、真っ先
によりによってユダヤ教のシナゴグへ入って行ったのです。「立派な行動」と
して称賛されるべきでしょうか。そうではありません。少なくともルカは、こ
のパウロの行動に、この当時のパウロの限界を見てとっていたのです。
 たまたま、ここでのパウロのシナゴグ伝道は大きな成果をあげました。山間
部の街道から外れた町だったからかもしれません。ここのユダヤ人は「素直」
で、つまり偏見なくものを見ることができました。パウロの語る御言葉、おそ
らくテサロニケのシナゴグで語ったのと同じメッセージ、「旧約聖書はメシア
の受難と死者からの復活を証言していること」、「イエスがそのメシアである
こと」を、受け容れました。

(この項、続く)



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