2016年06月19日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第49回「使徒言行録16章35〜40節」
(13/9/22)(その1)

35〜36節「朝になると、高官たちは下役たちを差し向けて、『あの者どもを釈
放せよ』と言わせた。それで、看守はパウロにこの言葉を伝えた。『高官たち
が、あなたがたを釈放するように、と言ってよこしました。さあ、牢から出て、
安心して行きなさい。』」

 フィリピの獄での出来事の続きです。
パウロとシラスとは、その伝道活動が、ローマの「不一致の原則」にふれ、む
ち打ちと入牢という刑を受け、厳重な監視下獄中にありました。ところがその
夜、奇跡が起こりました。「大地震」です。その地震の結果、牢の戸が皆開き、
すべての囚人の鎖が外れてしまったのです。
 私たちは使徒言行録5章、12章の物語を知っております。5章ではペトロと
ほかの使徒たちが、そして12章ではペトロが牢に捕えられました。しかし、ど
ちらの場合も夜中に天使が現れて、牢の入り口その他の戸を開け、12章の場合
には鎖もほどき、外に連れ出したのでした。ゆえに、今回の出来事も、神が、
天使を遣わす代わりに、「大地震」を引き起こされ、そして二人が解放された
出来事、と受け取られがちです。
 ところが、この「大地震」によって解放の出来事は起こりませんでした。パ
ウロとシラスばかりではなく、他の囚人たちも誰一人逃亡しなかったのです。
その代わり、なんと看守と看守の家族とが回心し、洗礼、バプテスマを受ける
のです。
 これはなぜか。いったいどうしたことなのか。この点については、先週詳し
くご説明申し上げましたので繰り返しませんが、結論だけ繰り返させていただ
きますと、ここで起こったのは、「大地震」そのものではなく、神がお顕れに
なられるときの「地の揺らぎ」だった、ということです。今回は、使徒言行録
5章、12章のときと違って、神様が直接にお顕れくださいました。それゆえ、
あまりの畏れ多さに、誰一人逃亡することなく、ただじっとしている他なかっ
たのです。そして、この出来事が神がお顕れになられた出来事であるというこ
とが分かりました時に、看守の回心が起こったのです。
 この出来事を通して、異邦人伝道の、特にローマ伝道の第三の型が確立され
ました。神顕現に触れることを通して、神への畏れを入り口として「永遠の命」
への信仰が与えられる、ということです。
 結局、あの、地獄をさえ連想される獄中が、神の栄光の場へと変えられたの
です。
 しかしながら、肝心のパウロとシラスとの解放は未完のままです。このまま
牢に止まることとなってしまうのでしょうか。というところから、今日の物語
は始まります。
 ところが、朝になると、新たな出来事の展開がありました。思いもかけない
解放の段取りが見えてきたのです。22節、23節で二人に対して厳しい判決を下
した高官たちが、下役たちを差し向けてきて、何と「あの者どもを釈放せよ」
と看守に指示してきたのです。そして、看守はその指示をパウロとシラスない
しはパウロに伝え、この指示によって、解放への一歩が踏み出されるのです。
 しかし、なぜ高官たちは、翌朝になって突然にパウロとシラスとの解放を決
断したのでしょうか。22節、23節の高官たちの姿勢からすると、あまりにも唐
突なのではないでしょうか。
 もっとも素直にして単純な解釈は、昨夜の「大地震」が、高官たちのオフィ
スないしはレジデンスにまでも及び、そして、高官たちも、その「大地震」が
「ただの『大地震』ではなく、神の顕現である」、ということまで悟り、さら
にその神の顕現の原因が「パウロとシラスとのむち打ちと入獄にある」ことを
悟り、さらにさらに、自分たちが二人を解放するしか「たたり」を逃れる方法
はないことまで悟った、とするものです。もし、このような外的、内的変化が
高官たちに起こっていたとしたら、35節の出来事は当然起こるはずです。そし
て、使徒言行録が刊行されてから以後の聖書解釈は、この解釈に従ってきまし
た。実際、使徒言行録の、後の時代に作られた写本には、「高官たちは下役た
ちを差し向けて」の前に「恐れて」の一言がそえられているのです。
 しかし、前回ふれたとおり、実際に多くの「大地震」を体験せざるを得な
かった私たちは特に、この解釈に対して2つの疑問を呈さざるを得ません。
 一つは、この夜の出来事が本当に「大地震」だったとして、そうでないこと
は前回の説教のときに立証しましたが、それでも仮に本当の「大地震」だった
としたら、具体的には「牢の戸が皆開き、すべての囚人の鎖が外れてしまった」
ほどの「大地震」であったとしたら、フィリピの町中の壊滅は免れえず、高官
たちもその対応に大わらわのはずで、いや、高官たち自身の命も危機に瀕して
いたはずで、昨日牢に入れた囚人のことに考えが及ぶことなどありえなかった
のではないか、ということです。

(この項、続く)



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