2016年06月12日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第48回「使徒言行録16章25〜34節」
(13/9/15)(その3)
(承前)

 ここ、使徒言行録16:16の地震はどちらなのでしょうか。「神がお現われに
なられるときに起こる『地の揺らぎ』」なのでしょうか。それとも「終末の
『カタストロフ』の一つとしての地震」なのでしょうか。文脈からすると、周
辺地域の被害は想定されていないようです。これはいわゆる「地震」ではなく、
「神がお現われになられるときに起こる『地の揺らぎ』」なのでしょう。ゆえ
に、囚人たちが逃げることがなかったのです。神のお顕れになられるところ、
人は畏れおののいて、ただじっとしているしかありません。しかし、隠された
意味として、ローマへの裁きの意味、ローマの滅びを示唆する終末的意味合い
もこっそりと込められていたかもしれません。どちらにしても、「ローマの獄」
が揺らいだことに、意味がある、ということです。
 「地の揺らぎ」、「神のお顕れ」であれば、囚人が逃げることもありません
し、看守も責められることも自害することもありません。パウロによって看守
の「自害」が食い止められたのち、物語は、なんと「看守の回心物語」へと展
開していきました。

29〜34節「看守は、明かりをもって来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラ
スの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して言った。『先生方、救わ
れるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさ
い。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人た
ち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行っ
て打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。この後、二
人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともど
も喜んだ。」

 神顕現に触れたわけですから、そして、他の囚人たちが逃げ出さないことに
より、そこに起こったのが「神顕現」であることが証明されたわけですから、
看守は畏れ入ってひれ伏さざるを得ません。だれに、どなたにひれ伏すか? 
この「事件」の中で、最も「冷静」であったパウロとシラスとが、「カミ」ら
しく見えたわけです。大慌てで、二人の前にひれ伏しました。
 彼は二人に「主たちよ」と呼びかけました。「主」とは聖書ではただお一人
の「主なる神」のことですから、翻訳では、誤解のないように「先生方」と意
訳してしまっていますが、二人が本当に話した言葉で言えば「神々よ」です。
「救われるためにはどうすべきでしょうか」という訳です。しかし、看守はこ
こで何を求めていたのでしょうか。なぜなら「救い」と訳されている語には幅
広い意味があるからです。
 まず第一に考えられるのは、「救う」にこの意味もあるのですが、看守が
「罰せられずに済むこと」を求めていた、ということです。もちろん、考えた
でしょうが、その答えをたとえ「カミ」とみなしたとしても、パウロとシラス
に求めても得られないだろうことは、彼にも分かったのではないでしょうか。
第二に、「救う」の第一の意味と逆というか、まったく対極にある意味で、彼
がこの語を用いたとしたら、ですが、ユダヤ・キリスト教の伝統を踏まえて
「永遠の命」を得る、という意味でこの語を用いて、「永遠の命を得るために
どうしたらいいでしょうか」と聞いた、ということです。これは、「富める青
年」ならともかく、聖書も律法も知らない異邦人である彼には、ありえない問
です。
 しからば何か? それは、「たたり」を畏れてです。聖なる者に触れ、出
会ったとき、これは人類普遍的に、人は「たたり」を畏れるのです。旧約宗教
においても原型の信仰においてはそうです。モーセは、燃える柴にお顕れに
なった神を見ることも触れることも許されませんでした(出エジプト記3章)。
看守は、神顕現を知って、その「たたり」を畏れ、反射的にこの問いを発した
のです。
 しかし、二人の答えは、看守の不安を一掃するに余りあるものでした。「主
イエスを信じる」ことによって、「あなたもあなたの家族も救われます」が答
えです。まず、二人が「カミ」ではないことが明らかにされ、そして、本当の
主、神、イエスを信ずるならば、救われることが示されたのです。ここでの
「救い」は先ほどの第二の意味であり、十字架に贖いによって永遠の命に至る
救いでした。
 とは言え、看守は、主イエスについても、十字架の贖いについても耳にする
のは初めてのことでしたでしょうから、たとえ少しではあったとしても、洗礼
準備教育は必要です。「救いの」意味が明らかにされた上で、洗礼が施され、
彼はさっそく、その感謝を二人を食事に招くことで実行しました。
 以上の物語を通して、冒頭に述べましたように、ここにローマにおける異邦
人伝道の第三のパターン、型が示されました。それは、「神顕現に触れて導か
れる」ということです。最も「神顕現に触れて」も、異邦人は最初は「たたり」
を畏れる対応しかできないかもしれません。しかし、「神を畏れる」という偉
大な徳を入り口として、「永遠の命」に至る信仰が与えられるのです。
神を畏れる歩みを私たちも大切にしてまいりたい、と願うものです。

(この項、完)



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