2016年05月22日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第47回「使徒言行録16章16〜24節」
(13/9/8)(その2)
(承前)
しかし、アポロも真の神の前では「霊」にすぎません。それゆえ、この女性
に取りついていたアポロの霊も、一行を前にして「この人たちは、いと高き神
の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」と叫ばざるをえなかった
のです。ゆえに、この「占いの霊に取りつかれている女奴隷」も、本当の「神
託」を取り次いでいるわけではなく、結局は異教の神という悪霊に取りつかれ
た一人の気の毒な女性に過ぎなかったのです。それゆえ、パウロの手によって、
イエス・キリストの名によって、悪霊追放がなされ、そしてこの女性はおそら
く生まれて初めて、自由となったのであります。推測ですが、この女性はすぐ
にではないとしても、受洗に至ったのではないでしょうか。
ちなみに、イエス・キリストの神、真の神の御心を知るにはどうしたらよい
でしょうか。占いに頼る必要はありません。主イエス・キリストが祈りによっ
て、父なる神の御心と全く一つとされたように、私たちも、祈ることによって、
神の御心を知ることができます。しかも、イエス・キリストは、わたしたちに
も父なる神を「アッバ父よ」と呼ぶことを許してくださいました。「占い」で
はなく、「アッバ父よ」と呼びかけるとき、神は御心を示してくださるのです。
要するに、キリスト教、イエス・キリストの神を信じる者においては、占いは、
「いらない」のです。
さて、こうして、異教の神という、結局は悪霊にすぎない力に縛られていた
女性の解放がなされ、つまり、異邦人が抱えている問題が解決され、万々歳、
伝道は進展するはずだったのですが、一行は現地人の思わぬ反発を食らうこと
となりました。
後半、第二部です。
19〜24節「ところが、この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってし
まったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引
き立てて行った。そして二人を高官たちに引き渡してこう言った。『この者た
ちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民で
あるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝し
ております。』群衆も一緒になって二人を責め立てたので、高官たちは二人の
衣服をはぎ取り、『鞭で打て』と命じた。そして、何度も鞭で打ってから二人
を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じた。この命令を受けた看守は、
二人を一番奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめておいた。」
パウロとシラスは、広場へ引き立てて行かれ、高官たちに引き渡されました。
その高官たちは、二人をむちうちの刑に処し、さらに獄に投じ足枷まではめて
しまうのです。
二人は、「悪霊にすぎない力に縛られていた女性の解放」という良いことを
したはずなのに、なぜこのようなひどい目に遭わねばならなかったのでしょう
か。しかも相手は、一行を「仇」として付け狙うユダヤ教徒では全くないし、
ユダヤ教徒と何らのつながりもない人々なのに、です。
第一の理由は、「この女の主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまっ
た」と記されている通り、経済問題でしょう。先ほど述べたように、宗教、特
に「はやる」宗教は金儲けと密接なつながりがあります。この観点からして、
この女性の解放が「喜び」ではなく、「生活苦」を意味する人がいた、という
ことでしょう。その辺の事情は察しますが、人が「自由」とされることは、何
にも増して優先されねばなりません。たとえ異教徒であっても、彼らは彼女の
解放を喜んで、新たな生活手段を考えるべきだったのです。
が、このような解決が比較的容易な問題ではなく、より困難な問題が迫害の
背景にあったことを、わたしたちは忘れてはなりません。それは、この女の主
人たちが訴追の中で、『この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させ
ております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行す
ることも許されない風習を宣伝しております』と言っているところに言い表さ
れている如く、パウロとシラスとが、「ユダヤ人」として取り扱われ、そのユ
ダヤの「風習」の「宣伝」が問題である、とされている点です。これは一体ど
ういうことなのでしょうか。
まず、「パウロとシラスとが、『ユダヤ人』として取り扱われた」という点
ですが、これは、お気づきになられた方もいらっしゃることと思いますが、捕
えられたのが「パウロとシラス」だけであったことから明らかです。一行には、
テモテとルカもいたはずですが、無事でした。捕えられた気配は全くありませ
ん。なぜでしょうか。それは、彼らが「ギリシア人」であり、「ユダヤ人」で
はなかったからです。つまり、この迫害の背景には、ギリシア人というより
ローマ人の、ユダヤ人に対する特別の「警戒」ないし「警戒心」がある、とい
うことです。
それでは「ローマ人の、ユダヤ人に対する特別の『警戒』ないし『警戒心』」
はいったいどこから来るのでしょうか。
(この項、続く)
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