2016年04月10日

〔使徒言行録連続講解説教〕

〔使徒言行録連続講解説教〕
第44回「使徒言行録16章1〜5節」
(13/8/18)(その3)
(承前)

 キーワードは「(その地方に住むユダヤ人の)手前」と訳されている部分で
す。「手前」という語は、日本語国語辞典を引くと「ていさい」という意味が
あり、ここは、(本音はともかく)「その地方に住むユダヤ人」の前で恰好を
つけた、という意味に受け取れます。ところが「手前」と訳されているギリシ
ア語の前置詞「ディア」はもっと意味が深いのです。「〜をとおして」という
のが一般的な意味ですが、これも先ほどと同じく、LXXには「隠れた原因」と
いう意味があったのです。申命記34:5がそうです。つまり、新たな出発をする
に当たり、割礼も受けるということは、周囲の人々の意向であり、そしてそれ
は本人の意向でもあった、と考えられるのです。
 テモテは、母方がユダヤ人である、ということは、当時のユダヤ教の解釈で
はユダヤ人とみなされました。割礼は、ユダヤ人にとっては、律法の規定であ
る以前に「神の祝福のしるし」でした。彼は新たな出発をするに当たり、今ま
で何らかの事情で受けていなかった割礼を受けることを通して、「自分は神の
祝福を受けて出発する」ということを、仲間に知らせたかったのではないで
しょうか。
 だとすれば、パウロの考えと矛盾せず、ローマの信徒への手紙2章で言われ
ている「霊によって心に施された割礼」としての意味を持つのではないでしょ
うか。
 そもそもユダヤ教で育った信徒たち、そして教会が、主イエス・キリストの
福音だけに生きるキリスト教会、そしてクリスチャンに生まれ変わるために、
本当に多くの時間と労とを必要としていることが、今日の記事から分かります。
 しかし、聖霊によって導かれる神は、このような「ユダヤ人信徒」を「あな
たは不十分なクリスチャンだから駄目ですよ」と切り捨てられるのではなく、
救いの途中にある、と位置付けておられるのです。そしてまた、先に、主イエ
ス・キリストの福音だけに生きることを獲得した異邦人クリスチャンに、「強
い人が弱い人を思いやるごとく」大人の対応を求めておられるのです。
 主の救いの計画の中で、そのご計画に仕えてまいりましょう。

(この項、完)


第45回「使徒言行録16章6〜10節」
(13/8/25)(その1)

6〜8節「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたの
で、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビ
ティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。それで、ミ
シア地方を通ってトロアスに下った。」

 パウロと、そしてシラスによる第二伝道旅行が始まりました。そして、この
旅行の途中でテモテが仲間に加わりました。
 なお、先々週申し上げたことですが、パウロの第2伝道旅行に同道したシラ
スは、15:22、27、32に登場するシラスとは別人物である、というのが、私た
ちの見解です。15:40以降の、すなわちパウロが第二伝道旅行に同道したシラ
スは、パウロと苦労を共にしました。16:19、25、29、17:1、4、10、14、15、
18:5。そればかりではありません。パウロの手紙の中に「シルワノ」という名
で度々登場し(Uコリ1:19、Tテサ1:1、Uテサ1:1)、Uコリ1:19では、パウ
ロと共に福音をコリント教会に正しく語ったことが記されています。このシラ
スないしはシルワノが、エルサレム教会からアンティオキア教会に派遣され、
異邦人信徒に「(たとえ一部であったとしても)律法を守りなさい」と通告す
る務めを負わされた人物と同一人物である、と考えることは、かなり困難であ
る、ということです。
 つまり、この「シラス(シルワノ)」問題に、「シラス(シルワノ)が何者
であるか」という問題に、第二伝道旅行の難しさが集約されています。つまり、
エルサレム教会から「異邦人信徒にも、当面割礼強制は免除するが、律法を守
らせろ」という指示が来ました。エルサレム教会は本山ですから、その指示は
きちんと受け止め、伝えねばなりません。しかし、それにも拘わらず、信徒
一人一人に「福音信仰に、福音信仰にのみ立つこと」を促さねばならない。こ
の矛盾する二つの使命を担って、パウロとシラス(シルワノ)の第二伝道旅行
はスタートしたのでした。
 パウロは、まず、デルベとリストラ、そしてイコニオンの教会を回ります。
既伝道地です。そして、信徒一人一人に「福音信仰に、福音信仰にのみ立つこ
と」を促す、に止まらず、強く、強く訴えたことと思います。ちょうどガラテ
ヤの信徒への手紙のように、です。ところが、このことをルカは使徒言行録に
全く記していないのです。ルカは、後に触れますように、パウロと伝道旅行を
共にしていますから、パウロの信仰を十分に理解していたはずです。なのに、
パウロが手紙で必死になって訴えていることを、当然言ったであろう場面で書
かない。代わりに「どうでもいいこと」だけを書く。ですから、読者はパウロ
を誤解してしまうのです。事実は、パウロが信徒一人一人に「福音信仰に、福
音信仰にのみ立つこと」を訴えることは、ルカにとっては、言うまでもない、
当然のことだった、と言うことです。

(この項、続く)




(C)2001-2016 MIYAKE, Nobuyuki & Motosumiyoshi Church All rights reserved.