2016年03月13日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第42回「使徒言行録15章22〜35節」
(13/8/4)(その3)
(承前)

 そして使者の仕事ですが、原文は「アパンゲロー」、「伝える」とはっきり
言っています。「説明する」という新共同訳の訳語は、誤解です。使者の伝達
が主で、手紙は「副」、確認だったのです。
 で、肝腎の伝達内容ですが、まず28節で「割礼強制」をしないことを告げま
した。大変に喜ばしいことです。が、ここに最大の問題が含まれています。28
節は「次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めま
した」とあります。もう一度心の中で読んでください。「必要な事柄」を守る
ことと、「一切あなたがたに重荷を負わせない」ことと、どちらに重点がある
のでしょうか。翻訳を素直に読むと、明らかに「一切あなたがたに重荷を負わ
せない」です。「一切」という言葉が、わたしたちのイメージを補強します。
しかし原文は「それ以外何も」です。事実は、重荷の量を減らしただけなので
す。そして実は重点は「必要な事柄を守ること」にあったのです。そして「必
要な」という訳は実に適切な訳で、29節に再録されている律法を守ることは、
救いのために「必要な」こと、すなわち「条件だ」と、この手紙は述べていた
のです。これは、「律法を守ることによってではなく、信仰によってのみ救わ
れる」とする福音と明らかに矛盾します。この手紙は、そしてそれに優先して
行われる伝達は、割礼強制は免除するが律法遵守を強制する、福音に反するも
のであったのです。
 さあ、このような「福音を危うくしかねない」伝達、そして、さらには「手
紙」に対してアンティオキアの教会はどのように対応したでしょうか。最後に
そこに触れておきましょう。結論から言えば、実に「賢い」対応でした。

30〜35節「さて、彼ら一同は見送りを受けて出発し、アンティオキアに到着す
ると、信者全体を集めて手紙を手渡した。彼らはそれを読み、励ましに満ちた
決定を知って喜んだ。ユダとシラスは預言する者でもあったので、いろいろと
話をして兄弟たちを励まし力づけ、しばらくここに滞在した後、兄弟たちから
送別の挨拶を受けて見送られ、自分たちを派遣した人々のところへ帰って行っ
た。しかし、パウロとバルナバはアンティオキアにとどまって教え、他の多く
の人と一緒に主の言葉の福音を告げ知らせた。」

 正式の伝達ですから、当然のことながら、アンティオキア教会の全員を招集
して、「伝達式」が行われました。口頭による伝達があって、その上で確認の
手紙が手渡されたことでしょう。
 その内容を聞いて、見て、アンティオキア教会の人々は、どのような反応を
示したでしょうか。「割礼強制がなくなる、と聞いていたのに、この決定は
いったい何なんだ」と怒り出したのではないか、というのが、ここまでの流れ
を丁寧に見てきた私たちの「予想」です。ところが、実際は「予想」に反し、
「彼らはそれを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだ。」だったのです。
なぜ、この反応なのでしょうか。アンティオキア教会の人々は『人がいい(甘
い)』にもほどがあるのではないでしょうか。しかし、そこにアンティオキア
教会の「知恵」が込められていたのです。
 問題は「励ましに満ちた決定」と訳されているその部分にあります。原語は
「パラクレーシス」です。「勧告」という意味です。「勧告」と言えば、実質
的にはそれは「命令」です。ここでなされたのは「律法を守れ。さもないと救
われないぞ。」という「命令」だったのです。
 ところが「パラクレーシス」には、「勇気づけ」という意味もあるのです。
エルサレム教会は、条件は緩和しはしましたが、律法遵守を「命令」しました。
しかし、アンティオキア教会は、それを「命令」とは受け取らずに、「割礼を
強制されないのだよ」という「勇気づけ」として、(翻訳はちょっと調子に乗
りすぎですが)「励ましに満ちた決定」として、受け止めてしまった、という
ことなのです。いやあ、素晴らしい「知恵」ですね。
 アンティオキア教会の大人ぶりは、さらに際立ちます。あの「嫌な」使者、
ユダとシラス、彼らは相変わらず、「勧告」をし続けます。それを、立てて、
立てて、やはり「励まし、力づけ」として受け止め、丁重に送り返してしまっ
たのです。
 ここでの範囲を超えますが、この時押し付けられた「律法」はどうなったで
しょうか。少しだけ触れておきますが、これらの規定は、「12使徒の教訓」な
ど、後の教会の規定でも触れられています。そして、その中でこれらの規定は、
「異邦人信徒とユダヤ人信徒とが共同で食事をするための『礼儀』」として、
つまり救いの条件としてではなく、愛の業として受け取られるようになってい
くのです。なんと賢いことでしょうか。
 福音宣教の過程において、教会内において十分な理解が得られず、問題を抱
えつつの出発を受け容れざるを得ない、そういう場合もあります。しかし、だ
からと言って「分裂」に走るのではなく、神のご計画のため、「知恵」を働か
せて、一致を守る、そういう努力も必要なのではないでしょうか。
 今日の物語は、主のご計画推進のため、知恵を用いることの必要性を教えて
くれている、そういう物語であります。

(この項、完)



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