2016年02月21日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第41回「使徒言行録15章6〜21節」
(13/7/28)(その2)
(承前)

 しかし、問題はこの部分が「使徒たち」と「長老たち」に、「裁判」に臨ん
でいる人々に説得力があったかどうか、です。私は「全くなかった」と思いま
す。なぜなら、一つには聞いている人が、「福音」を受け容れていなかったか
らです。そして、もう一つには、ペトロの信用の問題がありました。これは、
使徒言行録連続講解説教の10章の所でも申し上げたことですが、ペトロは前身
がファリサイ派でも律法学者でもなく、それどころかガリラヤ出身の漁師つま
り「地の民」の出であって、律法をきちんと守ったことなどなかったはずだか
らです。この部分を、(ファリサイ派出身の)パウロが語れば説得力があった
ことでしょうが、パウロは「被告」で発言さえも許されない状況でした。
 ペトロの発言がそれなりの影響力を持ったのは、大方の予想に反して、
7〜9節の前半でした。つまり、「コルネリウス体験」です。あの出会いは偶
然ではなく、神の摂理だったのです。7節は意訳のしすぎです。「わたしを」
は原文にありません。神はペトロにコルネリウスとの出会いを用意してくだ
さったのです。そして、ペトロはそこで、神が異邦人を「分け隔てなさらず
(「差別せず」でなく、こう訳した方がいいです)、聖霊によって、つまり、
律法によってではなく、「信仰によって」清めてくださるそのあり様を目の当
たりにしたのです。
 私たちの感覚からずいぶん違うかもしれませんが、一神教で育ったユダヤの
人たちは、この「神は」にぐっと来てしまったのです。かみのなさることなら
いい、のです。やっとバルナバとパウロに弁論の余地を与え、そしてヤコブが、
これもただの「お話し」ではなくて「判決」を下しました。後半部分を、急い
で見ていくことといたしましょう。

12〜21節「すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通し
て神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを
聞いていた。二人が話を終えると、ヤコブが答えた。『兄弟たち、聞いてくだ
さい。神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出
そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの
言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。
「『その後、わたしは戻って来て、
倒れたダビデの幕屋を建て直す。
その破壊された所を建て直して、
元どおりにする。
それは、人々のうちの残った者や、
わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、
主を求めるようになるためだ。』
昔から知らされていたことを行う主は、
こう言われる。」
それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりませ
ん。ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、
血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。モーセの律法は、昔からどの町
にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」

 ここで、バルナバとパウロに弁論の機会が与えられました。「よかった、よ
かった」と私たちは思うかもしれませんが、まだそう思うのは早いのです。彼
らは「神がなしたしるしと不思議な業」についてしか語っていません。福音と、
そのイエスにおいて異邦人にも救いがもたらされたことについては語られな
かったのだ、と考えられるのです。
 そして、当時のエルサレム教会の指導者で、ユダヤ教キリスト派の立場をと
る者のリーダーであるヤコブが発言しました。この発言をもって「エルサレム
会議」は結論としました。なぜでしょうか。それは、ヤコブの発言は、ただの
意見ではなく、判決だったからです。19節「わたしはこう判断します。」は、
原語に戻して訳しなおすと、「わたしは判決を下します」なのです。
 その判決内容は、19節後半「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」、
すなわち、「神のみ心ならば、異邦人伝道を認めましょう。異邦人にとって負
担であるならば、異邦人への割礼強制は当面は控えましょう、律法強制につい
ても、最低限のところでとどめておきましょう」というものだったのです。

(この項、続く)



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