2016年02月07日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第40回「使徒言行録15章1〜5節」
(13/7/21)(その2)
(承前)

 ところが、ユダヤ教が宗教として確立され、ユダヤ人以外の人でもユダヤ教
に改宗したい、という人が出てくるようになりますと、改宗者にも割礼を受け
ることが要求されることとなってきました。しかし、成人の割礼は子どもの場
合と比較にならないくらい危険です。これはヨセフスが記していることですが、
パルティア王国の王イザテ二世(1〜55)がユダヤ教に深く傾倒しました。改
宗のためには、割礼を受けることが必要です。しかし、王にとってそれは危険
なことなので、ラビ・アナニアは例外を主張しました。しかし、反対論もあり、
割礼は執行されました。その後、ホムスの王、キリキア王の改宗においても割
礼は執行されています。クリスチャンにおいても、パウロは弟子のテモテに割
礼を受けさせています(16:3)。しかし、テトスには、割礼を受けさせてい
ません(ガラテヤ2:3)。また、ペトロもコルネリウスに洗礼は授けました
が、割礼は要求しておらず、実際問題として、異邦人クリスチャンには割礼は
徐々に要求されなくなってきたのだ、と考えられます。パウロとバルナバは、
まず、実際に「異邦人伝道」にかかわってきた経験から、「割礼強制」に反対
しました。
 しかし、パウロとバルナバが「割礼強制」に反対した理由はそれだけではあ
りませんでした。ここで起こった「対立と論争」を原語に戻してみると、特に
「論争(ゼーテーシス)」は殺人に至りかねない論争を意味します。なぜ、パ
ウロとバルナバがそこまで「割礼強制」に対して怒ったのでしょうか。それを
理解するには、当時のユダヤ教の状況を知る必要があります。ユダヤ教はそも
そも神殿礼拝と律法遵守の2本柱で信仰が守られてきたのですが、ローマ帝国
との対立が徐々に厳しくなり、やがてA.D.70年の神殿崩壊を迎えることとなり
ます。その事態の中でどうやってユダヤ教の信仰を守っていくか、律法遵守し
かありません。ファリサイ派が抬頭し、割礼は祝福の「しるし」ではなく、律
法そのものだ、と受け取られるようになって来ていたのです。その当時。ここ
で言う「ユダヤから下って来た人」も、そして5節で言う「ファリサイ派から
信者になった人」も、当時のユダヤ教の影響を大いに受けていたのではないで
しょうか。
 割礼が神からの祝福のしるしであるならば、パウロでさえ容認するところで
す。パウロはその最後の手紙であるローマの信徒への手紙でも「霊によって心
に施された割礼こそ(真の)割礼なのです(2:29)」と主張しているくらい
です。しかし、それが「律法」となると、割礼を受けることは、「律法の業に
よって救われよう」とすることを意味し、「信仰義認」に反対することと、い
や真っ向から対立することとなります。それゆえ、パウロらは「モーセの慣習
に従って割礼を受けなければ『救われない』」と主張する、この信仰のわから
ない人に真っ向から対決したのです。
 しかし、「割礼強制」を教会で行うことは何とかやめさせねばなりませんか
ら、二人は、他の者と共に、エルサレムに上り、決着をつけることといたしま
した。その意気込みがいかに大きなものであったか。ガラテヤの信徒への手紙
では、おそらくこの会議であろうか、と思われますが、割礼を受けていない信
者の模範としてテトスを同行したことが記録されているのです。
 新共同訳聖書につけられた「小見出し」には、「エルサレムの使徒会議」と
記されていますが、パウロにとっては、これは「会議」ではなく「説得」でし
た。その「説得」がうまくいったかどうかは今後の展開を見ていきたいところ
ですが、前途多難を予測させる3〜5節を読んで、今日のところはおしまいと
いたしましょう。

3〜5節「さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア
地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を
大いに喜ばせた。エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長
老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告
した。ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人に
も割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った。」

 「説得」に行くのですから、二人は道すがら、そしてエルサレム到着後も、
理解者をつくる、増やすことに尽力します。しかし、事態は決して楽観を許す
ものではありませんでした。「ファリサイ派から信者になった人」、信仰のわ
からない人の典型のような人が現れ、「ユダヤから下って来た人」もそこまで
は言わなかった、「モーセの律法を守るように命じるべきだ」まで言い出しま
して、前途多難をうかがわせるのであります。
 昔の出来事のように思われるかもしれません。しかし、福音宣教とは、いつ
の時代においても、迫害との戦いだけではなく、福音に対する無理解、誤解、
つまり信仰のわからない人との戦いでもあります。パウロの戦いは、私たちの
戦いでもあります。パウロの戦いが勝利するよう、福音が正しく宣べ伝えられ
るように、私たちも祈りつつ見守っていきましょう。

(この項、完)



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