2016年01月24日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第40回「使徒言行録15章1〜5節」
(13/7/21)(その1)
1〜2節「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を
受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた。それで、
パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。
この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほ
か数名の者がエルサレムへ上ることが決まった。」
度々申し上げているように、使徒言行録のテーマは「異邦人伝道」です。
主イエス・キリストは、「ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至る
まで、わたしの証人となる」ように、使徒たちにお命じになられましたが(1:9)、
実際の異邦人伝道はなかなか進展しませんでした。というより、始まりさえし
ませんでした。ペンテコステの後においても、福音はエルサレムに住むユダヤ
人に対してだけ語られていたのです。せいぜいエルサレムに住む、「ギリシア
語を話すユダヤ人」に改宗者が出るくらいのところでした。(世界宣教と言い
ながら、実は自分たちの仲間内でだけスローガンを楽しんでいる、といった
ケースは、私たちの近くにもままあります。)
実際に「異邦人」に福音が語られるようになったきっかけは、ステファノ殺
害を契機とする、エルサレム教会への迫害でした。これをきっかけとして散ら
された人々が、具体的にはフィリポらが異邦人に福音を伝えたのが最初です。
でもサマリア伝道の失敗を始めとして、試行錯誤が続きます。しかしその中で、
異邦人伝道の3つの原則が確立されていきます。すなわち、1.教会の権威を
もって伝道が行われること、2.旧約聖書以来の神の救い(救済)の歴史を踏
まえて福音が語られること、3.ただイエスのみが、つまり神のみが指し示さ
れること、です。
やがて、使徒のリーダーとも言えるペトロも異邦人に福音を語るようになり、
その他の知られざる信徒の努力によって、異邦人信徒中心のアンティオキア教
会も形成されるようになり、異邦人伝道は先に実が与えられるという展開とな
りました。しかし、これまでの働きは全て「個人」の努力によるものでして、
実は教会は、未だかつて「異邦人伝道」というプロジェクトを一度も組んだこ
とはなかったのです。
アンティオキアの教会が、教会の業としての「異邦人伝道」に初めて取り組
むこととなりました。パウロとバルナバに手を置いて(按手して)、その使命
に送り出しました。パウロとバルナバは、その派遣に答えて、いわゆる「パウ
ロの第一伝道旅行」を実施いたします。キプロスと小アジアです。いろいろの
困難がありました。また、新たな困難の種も生みだされてしまいました。しか
し、それでも、異邦人伝道の3つの課題は見事にクリヤーし、いくつかの、お
そらく異邦人ばかりの教会が形成されたのです。本物の「異邦人伝道」が、こ
こに初めて第一歩を踏み出した、のです。
以上少し長くなりましたが、異邦人伝道という観点から見た、使徒言行録の
前半、1章から14章の要約です。
さあ、これからどんどん世界各地に出て行って、異邦人伝道を進めましょう。
ギリシアも行きたいし、ローマにも行きたいですね。というところで、「異邦
人伝道」は、16章に入って新たな展開をするのですが、ここに来て、「異邦人
伝道」を妨げる新たな課題が露呈するのです。それは、皆様もうすうすお気づ
きになられて心配しておられた方もいらっしゃると思うのですが、エルサレム
教会の問題です。あの肝心要の、イエス・キリストの復活の証人であるエルサ
レム教会が、あのペンテコステを体験したエルサレム教会が、「異邦人伝道」
に全然乗り出さないし、乗り出す気さえない。それどころか、エルサレム教会
の信徒の一部(派遣されてきた人の可能性もあります)が「異邦人伝道」の功
労者であるアンティオキアの教会に来て、「異邦人伝道」にケチをつけて来た
のです。(これは現代の教会でもよくあることです。主のみ業をなさねばなら
ない教会が、主のみ業をなしている人の足を引っ張るのです。誤解程度のこと
であるといいのですが…)そのケチの内容ですが、「異邦人信徒に、洗礼だけ
でなく割礼も受けさせろ」というものでした。
この要求は、異邦人信徒に過大な要求、負担、負い目、痛みを押し付けるも
のであるばかりでなく、福音の根幹を揺るがす、つまり、間違った、とんでも
ない要求でした。そこで、パウロとバルナバは、話をつけに、つまりこの要求
をやめさせるためにエルサレム教会へ赴き、そこで、有名な「エルサレム会議」
が開催されることとなるのです。が、この「割礼要求」が、なぜ異邦人信徒に
過大な要求、負担、負い目、痛みを押し付けるものとなるのか、またなぜ福音
の根幹を揺るがすものとなるのか、そこから話を始めることといたしましょう。
まず、割礼そのものですが、これはもう皆様例外なくご存じのように、創世
記17章において定められたイスラエルの慣習です。神がイスラエルの民を特別
に選び賜うた、その契約のしるしとして、イスラエルに生まれた男子は全員例
外なく生まれて8日目に受けるのです。もちろん大変に痛い行事ですが、割礼
そのものはいいこと、祝福のしるしなのです。
(この項、続く)
(C)2001-2016 MIYAKE, Nobuyuki &
Motosumiyoshi Church All rights reserved.