2015年11月29日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第35回「使徒言行録13章13〜43節」
(13/6/16)(その3)
(承前)

 そして最後第3部(38〜41節)、まとめの部分です。

38〜41節「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが
告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、
信じる者は皆、この方によって義とされるのです。それで、預言者の書に言わ
れていることが起こらないように、警戒しなさい。『見よ、侮るものよ、驚け。
滅び去れ。わたしはお前たちの時代に一つのことを行う。人が詳しく説明して
も、お前たちにはとうてい信じられない事を。』」

 この結論部分において、この説教は、単なる、イエスを十字架につけてし
まった罪の赦しだけではなく、信仰義認によって永遠の生命への道を開くとこ
ろで、締めくくられることとなりました。パウロの実際の説教をこの部分は強
く反映していると思われます。(実は「義とする」という動詞を、ルカは使徒
言行録でここでしか用いていません。この事実も、この部分が極めてパウロ的
である証明となるでしょう)
 無条件の救いが示された以上、逆に拒絶する者への裁きは厳しいこととなり
ます。ハバクク1:5の引用をもって、パウロの説教は締めくくられることとな
りました。終末の時ならず、今が、神がみ業をなさるその時なのです。
 さて、ほとんど原型をとどめない説教記録ではありましたが、パウロは果た
してその使命を全うすることができたでしょうか。十分にできたことと思われ
ます。神の一方的恵みによる信仰義認を明確にする一方で、明らかに律法によ
る義を否定しました。そして、これは傍証ですが、次回の所に見られるごとく、
ユダヤ人が反発したことが、パウロの説教が真実であったことを証しています。
 最後に、この説教が、ユダヤ人に対して挑発するにとどまらず、異邦人に届
かなければ意味がありません。どうだったでしょうか。ご安心ください。シナ
ゴグには、ユダヤ人のほか、「神を畏れる方々(16節)」、「あなたがたの中に
いて神を畏れる人たち(26節)」、「神を崇める改宗者(43節)」がいました。
つまり、シナゴグには、以前もコルネリウスのところで触れましたが、割礼は
受けていないユダヤ教への改宗者、さらにシンパがいたのです。この人たちは
「ユダヤ教へのシンパ」ではありますが、あくまでも異邦人ですから、パウロ
の説教はより深く心に届いたに違いありません。この人々を足掛かりとして、
福音は異邦人に着実に伝わって行くのです。その点は次回学びましょう。
 神の力強いみ腕が、わたしたちにも及んでいることを覚え、勇気をもって励
んでまいりましょう。

(この項、完)


第35回「使徒言行録13章44〜52節」
(13/6/23)(その1)

44節「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集ま
って来た。」

 パウロの、パウロとその一行による第一伝道旅行の続きです。パウロは、パ
ウロとその一行は、アンティオキア教会から派遣されて異邦人伝道に出発しま
した。
 最初の伝道地はキプロスでした。早速、「異邦人伝道の三原則」の第一、
「使徒の権威が確立していることが必要であること」が試されることとなりま
した。パウロは、「魔術師(マゴス)にして、偽預言者であるところのバルイ
エス、別名エリマ」と対決せねばなりませんでした。サマリア伝道(8章)の
時のように隙を見せると、福音がないがしろにされてしまいます。教会から按
手をもって神の権威を授与されたパウロは、神の権威をもって敵と対抗し、敵
を打ち負かし、神の権威を示すことができました。神の権威を目の当たりにし
て、地方総督セルギウス・パウルスが入信し、キプロス伝道は、成功裡の内に
終えることができました。そして同時に「異邦人伝道の三原則」の第一の課題、
「使徒の権威が確立していることが必要であること」もクリヤーすることがで
きたのです。
 次に、パウロとその一行が訪れた伝道地がピシディア州アンティオキアです。
ここでの課題は、「異邦人伝道の三原則」の第二、「福音をユダヤ人に対して
ばかりでなく、ユダヤ教の伝統を踏まえてさらに異邦人に語ることのできる」
か? です。パウロがその使命を担います。アンティオキアのシナゴグで、
第一部(16〜25節)「旧約聖書からイエスまで、」第二部(26〜37節)「イエ
スについて、」第三部(38〜41節)「勧め」からなる長い説教をいたします。
もちろん、ここに記録されている説教は、パウロが語ったそのことを、誰かが
記録し、さらにその記録を受け取ったルカが脚色したものですから、実はほと
んど原型をとどめないものかもしれません。パウロの生の言葉、ローマの信徒
への手紙と比べると、実に見劣りします。しかし、それにも拘わらず、パウロ
が確かに、「律法の義」を否定し、「信仰の義」を主張したであろうことは、
かすかにではあっても伝わってきます(38〜39節)。

(この項、続く)



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