2015年11月22日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第35回「使徒言行録13章13〜43節」
(13/6/16)(その2)
(承前)

 後に人々が王を求めたので、神は40年の間、ベニヤミン族の者で、キシュの
子サウルをお与えになり、それからまた、サウルを退けてダビデを王位につけ、
彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたし
の心に適う者、ダビデを見いだした。彼は私の思うところをすべて行う。』神
は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってく
ださったのです。ヨハネは、イエスがおいでになる前に、イスラエルの民全体
に悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。その生涯を終えようとするとき、ヨハネ
はこう言いました。『わたしを何者だと思っているのか。わたしは、あなたた
ちが期待しているような者ではない。その方はわたしの後から来られるが、わ
たしはその足の履物をお脱がせする値打ちもない。』」
 この旅行は、異邦人伝道に徹する旅行として実施されました。何気ない記述
ですが、13節の主語が「パウロとその一行」となっています。キプロス宣教の
時の「バルナバとサウロ」とえらい違いです。順位が入れ替わった、と言うば
かりでなく、旅行の性格が、「異邦人伝道のため」と明確になったのです。そ
のため、異邦人伝道の使命を帯びた、使徒「パウロ」がトップとなり、この、
そしてこれからの異邦人伝道の主役となったのです。今回の旅行が「パウロの
第一次伝道旅行」、と言われる所以です。
 ヨハネがこの旅行から脱落してしまった理由も、この旅行の性格の明確化と
関係があるに違いありません。ヨハネは「エルサレム」に帰ってしまいました。
この時点では、パウロの「異邦人伝道」について行けなかったのです。(のち
に「和解」?:コロサイ4:10など)
 にもかかわらず、キプロスの時もそうでしたが、パウロが、その町へ着いた
ら最初にシナゴグで説教する、というのはいったいどうしたことでしょうか。
しかも、ユダヤ教の礼拝形式をきちんと守って…。
 それが実は本日のポイントです。パウロはそもそも、異邦人伝道の三原則の
内、第二の原則、「福音をユダヤ人に対してばかりでなく、ユダヤ教の伝統を
踏まえてさらに異邦人に語る」という使命を帯びて立てられた使徒です。です
から、イエスの十字架の贖いによるすべての人の救いが、旧約聖書に基づくこ
とを証明すること、旧約聖書のユダヤ教とは異なる解釈を示すことが彼の使命
でした。それゆえ、シナゴグに乗り込んで行って、ユダヤ教の伝統を踏まえつ
つ、違うことを言おうとしたのです。この説教を通して彼がその使命を果たせ
ているかどうか、が問われています。私たちもその点を厳しくチェックいたし
ましょう。
 とは言え、本日の説教は、ルカが記録したものです。「テープ起こし」など
は行われていません。記録されていない部分、ルカが付け加えてしまった部分
が、意図的、無意図的に多々あるに違いありません。そのようなかなりの悪条
件の下ですが、パウロの意図をくみ取って、評価してまいりましょう。
 第一部は旧約聖書の解釈です。ユダヤ教の解釈と決定的に違うところは、ユ
ダヤ教でしたら絶対に落とすことのない「律法授与」がないことです。この説
教によれば、イスラエルを導いたのは、神の力強いみ腕でした。神の力強いみ
腕が父祖たちを選び、出エジプトを実現させ、荒れ野のつぶやきを耐えさせ、
カナン征服を実現させ、士師を任命し、王を立て、そしてダビデを王の位につ
けました。そして、そのダビデに与えられた約束(詩編89:21)によってイエ
スを立てた、というわけです。もちろん、バプテスマのヨハネなど、「わたし
はその足の履物をお脱がせする値打ちもない」者だというわけです。
 このイエスによって、神の御心であるすべての人への救いが成就した、とい
うわけです。
 第二部(26〜37節)は、イエスについてです。しかし、その前半(26〜29節
)の、イエス殺害の責任をユダヤ人に負わせる部分は、使徒言行録2章のペトロ
の説教と重なる部分が、いや全く同じ部分が多々あり、明らかにルカの作文で
す。パウロは、かつてキリストに従う者を迫害する者でした。復活のキリスト
に出会って「わたしは、キリストと共に十字架につけられた(ガラテヤ2:19)」
と言っています。そのパウロが十字架を人の責任にするようなことを言うで
しょうか。
 復活に関しても(30〜37節)、「ガリラヤからエルサレムに上った人々
(31節)」を特別視するなど、パウロにはありえない発言です(1コリ15章)。
しかし、詩編2編、イザヤ55:3、歴代誌下6:42、詩編16:10の引用により、イエ
スの復活が「朽ち果てるものではなかったこと」、すなわち「永遠の生命」に
至るものであることを述べて、かろうじてパウロらしさを保って、別の言い方
をすれば、ユダヤ教との違いを明確にしています。本物のパウロの説教は、
もっと旗幟鮮明なものだったことでしょう。

(この項続く)



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