2015年10月25日
〔使徒言行録連続講解説教〕
第33回「使徒言行録12章20〜25節」
(13/6/2)(その2)
(承前)
ちなみに、ヨセフスにはこの記述は一切なく、祝賀行事は、皇帝の栄誉をた
たえるためのものであった、とされています。事の真偽は不明です(ルカが間
違っている、とも言いきれません)が、ともかく、何かの出来事がきっかけで
祝賀行事が開かれることになったのです。
21節、その祝賀行事において、ヘロデが王服を着て演説をしました。どのよ
うな演説だったのか、分かりません。しかし、ルカは「演説する」と訳されて
いる語の原語に、「見下した意味」の込められた語を用いています。実際ひど
い演説だったのか、あるいはルカによる評価なのか、定かではありませんが、
ルカから見れば「いただけない」演説だったのでしょう。一方、ヨセフスの祝
賀行事では、ヘロデは演説していません。が、王服が素晴らしかったのです。
「銀糸だけで織られたすばらしい布地で裁った衣装をつけ、…太陽の最初の光
が銀糸に映えてまぶしく照り輝くその光景は、彼を見つめる人たちに畏怖の念
を与えずにはおかなかった」とのことです。
ルカにしてもヨセフスにしても、けばけばしさだけが目立つこの祝賀行事に
おいて、思いもかけないことが起こりました。列席者が「神の声だ。人間の声
ではない」と叫びだしてやまなかったのです。ヨセフスの場合には、声を聞い
てはいませんので、人々が「ああ神なるお方よ」と叫び始めたとのことですが、
いずれにしても、ヘロデは神にされてしまったのです。もしも、このような事
態が生じたならば、後にパウロとバルナバがリストラでそうしたように(使徒
言行録14:8以下)、直ちに神に栄光を帰さねばなりません。
ところが、ヘロデは神に栄光を帰しませんでした。この点は、ヨセフスも全
く一致しています。確かに帰さなかったのでしょう。たちまち、使徒言行録に
よれば「蛆に食い荒らされて」、ヨセフスによれば、「心臓に刺すような痛み
を覚えて」、突然死を遂げることとなりました。
死の理由については、使徒言行録とヨセフスは一致してはいません。ヨセフ
スによれば、それは運命です。ヘロデは、死の直前、正確に言えば「心臓に刺
すような痛みを覚える」直前、不幸を告げるふくろうを目にしました。ルカは、
当然のことながら、神の罰です。「天使が撃った」と記されていますが、実際
に天使がたたいたのではなく、それは、神が罰を下したことの象徴的表現です。
もっと具体的に言えば、「蛆に食い荒らされた」という死にざまが、神の罰に
よる死を表しています。マカベア二9:9によれば、あのアンティオコス・エピ
ファネスも、死に際して両目から蛆が湧き出しました。「神を畏れぬ者」だっ
たからです。
さて、こうしてヘロデが撃たれる、というペトロの牢抜けに勝るとも劣らぬ
「奇跡」によって、結果的に、教会は存亡の危機を脱しました。神は、思いも
かけない方法で、御心に適う教会を守ってくださったのです。しかし、このヘ
ロデ物語の意義は、「神はどんなことをしてでも教会を守ってくださる」とい
うことではありません。神は、神にそむく者を放置しては置かれない、という
ことです。
最後にこのことについて少しだけ説明を付け加えさせていただきます。
すでにこの場で講解説教を行ったマルコによる福音書を思い起こしてみま
しょう。マルコによる福音書は、イエスの「伝道」の生涯を描いたものでした。
ところが、1か所だけ、イエスが全く登場しない物語がありました。それは、
ヘロデ(アンティパス)によるバプテスマのヨハネ殺害の物語でした(マルコ
6:14以下)。そこでは、ヘロデに代表される「地の支配」が大手をふるってお
り、預言者さえもが惨殺されたのです。
しかし、イエスのみ業は成就し、教会の時代となりました。それにも拘わら
ず、再び、今度は教会が全く登場しないヘロデ(アグリッパ)の物語がここに挿
入されました。イエスのみ業の成就後も、「地の支配」は生き続けているので
す。しかし、今回は神が冒涜を放置しては置かれません。そういう時代に入っ
たのです。この物語は、神が世界の支配者であられることを、イスラエルだけ
でなく、ローマにおいても、お示しになられた出来事でもあるのではないで
しょうか。
もちろん、いまだ「地の支配」は一見、圧倒的勢力をもって権勢をふるって
います。しかし、神がそのご支配、御心に適うことを実現しつつあられること
も、私たちは決して忘れてはならないのではないでしょうか。
24節、25節は、テキストの次の部分とつながりますので、次回に合わせて触
れることといたしましょう。
(この項、完)
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