2015年08月30日

〔使徒言行録連続講解説教〕

第29回「使徒言行録11章19〜26節」
(13/4/21)(その2) (承前)

 さあ、この、「ギリシア語を話す人々への語り掛け」が何を意味するか、が
問題であります。まず「ギリシア語を話す人々」と訳されている語ですが、原
語は「ヘレーネス(ヘレニスト)」という一語です。ところがこの語は実は、数
あるギリシア語文献の中でも、新約聖書、それも使徒言行録6:1と9:29とここ
だけ、つまり世界で、有史以来3回しか使われたことのない語なのです。こう
いう希少語は意味特定が大変困難です。さあ、困っちゃった。とはいえ、6:1
と9:29では、文脈上、「ディアスポラ(外国)で育って、そこの言葉(ギリシア
語)を身に着けたユダヤ人」のことを指すことは明らかですので、少しくどい
訳ですが、「ギリシア語を話すユダヤ人」と訳出されていました。そして、そ
の訳は妥当です。が、ここは文脈上、19節でユダヤ人だけに御言葉が語られて
いた、となっていて、「しかし」と続くのですから、ユダヤ人以外に御言葉が
語られたのでなければ収まりません。困ってしまいました。そこで、「ヘレー
ネス」という言葉の成り立ちに遡ってみますと、そもそもは、「ギリシア語を
話す人」ないしは「ギリシア人」という意味の語であったはずでした。それで、
新共同訳は「ギリシア語を話す人々」協会訳ではもっとはっきりと「ギリシア
人」と訳しているのです。もちろん、これらの訳も妥当です。つまり、ここで、
ここで初めて一般のギリシア人、異邦人への福音宣教が始まったのです。画期
的出来事にしては、あまりにもさらっと書かれているので、読み飛ばしさえし
そうですが、そうなのです。彼らはこの事業に着手しました。追い詰められて
の行動だったかもしれません。ですから、何も触れられてないことから明らか
なごとく、何も考える余裕さえなく、割礼なしで信者を作り出しました。とこ
ろがそこに神の御心がなされました。「信じて主に立ち帰った者」、真の信者
となった者が多く出たのです。こうして、ここに割礼なしの異邦人信徒からな
る異邦人教会が実際でき、異邦人伝道の最後の難関が事実として乗り越えられ
たのです。これで、異邦人伝道には、事実上ゴーサインが出た、と言えるで
しょう。しかし、理論上の問題は時間がかかるとしても、政治上の問題、つま
りエルサレム教会の認知はすぐにでも必要です。案の定、アンティオキア教会
で異邦人信徒が無割礼で教会のメンバーとなったことは、直ちにエルサレム教
会に知られるところとなりました。教会はバルナバをアンティオキアに遣わし
ました。サマリアでの失敗の二の舞にならねばいいのですが…

22〜26節「このうわさがエルサレムにある教会にも聞こえてきたので、教会は
バルナバをアンティオキアへ行くように派遣した。バルナバはそこに到着する
と、神の恵みが与えられた有様を見て喜び、そして、固い決意をもって主から
離れることのないようにと、皆に勧めた。バルナバは立派な人物で、聖霊と信
仰とに満ちていたからである。こうして、多くの人が主へと導かれた。それか
ら、バルナバはサウロを探しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキア
に連れ帰った。二人は、丸二年の間そこの教会に一緒にいて多くの人を教えた。
このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった
のである。」

 エルサレム教会は、主の復活の証人として、福音宣教の拠点とならねばなり
ません。ゆえに、各教会の宣教活動が復活の主のご命令に適っているかどうか、
チェックする義務があります。しかし、そのチェックの仕方が問題です。サマ
リアでは、遣わされたペトロとヨハネとは、フィリポの宣教の長所を受け止め
ず、欠点を指摘し、欠点を是正すると称して、何ら根拠のない儀礼をおこない、
躓きを引き起こしてしまいました(8:9〜24)。サマリアの宣教そのものをダメ
にしてしまいました。今度はどうでしょうか。エルサレム教会から遣わされた
バルナバは、まず「見て(23)」神の恵みを認知し、それを喜びました。そして、
「固い決意をもって主から離れることのないように」勧めました。ここに伝道
者のあるべき姿勢が示されています。まず、「見て」「聞いて」主のみ業が認
められたならば、たとえ自分の想定とは違っていても、それを受け容れ、最大
限生かすことを務めとすべきです。もちろんアンティオキアの信者の欠点も直
ちにわかったことと思います。まだ理論が欠落しているのです。割礼問題にも
対処できる力はありません。そこで、彼はサウロを連れてきて、このアンティ
オキアの信徒の欠点を責めるのではなく、補う方策、つまり理論武装をさせる
ために最大限の努力を払うのです。バルナバが、「立派な人物で、聖霊と信仰
とに満ちていた」との最大の賛辞を受ける理由は以上の点にあります。こうし
て、アンティオキアの教会はサマリアと対照的に、伝統も歴史もないにも関わ
らず、「キリスト者(クリスチャン)」と呼ばれるにふさわしい教会として、異
邦人伝道の拠点、新たな伝統の始まりとなったのです。何がそうさせたので
しょうか。無名の人々、そしてバルナバが、今までのやり方、固定観念に固執
することなく、神の御心を第一とし、それを素直に受け入れたからです。私た
ちは、教会の歴史のどこにどのような形で配置されるかはわかりませんが、ど
のような場合においても、無名の人々、そしてバルナバのごとく、まず主の御
心、み業を受け止め、ふさわしい対応をすることができるように祈り求めてま
いりましょう。

(この項、完)



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