2015年08月23日

〔使徒言行録連続講解説教〕

〔使徒言行録連続講解説教〕
第29回「使徒言行録11章19〜26節」
(13/4/21)(その1)

19〜21節「ステファノの事件をきっかけにして起こった迫害のために散らされ
た人々は、フェニキア、キプロス、アンティオキアまで行ったが、ユダヤ人以
外のだれにも御言葉を語らなかった。しかし、彼らの中にキプロス島やキレネ
から来た者がいて、アンティオキアへ行き、ギリシア語を話す人々にも語りか
け、主イエスについて福音を告げ知らせた。主がこの人々を助けられたので、
信じて主に立ち帰った者の数は多かった。」
 エルサレム教会への迫害をきっかけとして始まった異邦人伝道の試みの第3弾、
今日はその最終の出来事の記録となります。しかし、私たちは、またもやこの
物語は、かなりの失望をもって終わるのではないか、との悪い予感をもって、
今日の物語、本日のテキストを迎えるのであります。なぜなら、前2回の異邦人
伝道の試みの学びの結論は、特に説教での結論は、必ず「まだ駄目ですが、神
は待っていてくださいます」だったからです。どういうことか、と言えば、
第一弾のフィリポのサマリア伝道においては、せっかく多くの受洗者が起こさ
れたのに、エルサレム教会からの干渉によって、その成果はめちゃめちゃにさ
れてしまいました。フィリポ伝道の続編の、通りがかりのエチオピアの高官へ
の伝道に関しては、通りがかりですので、エルサレム教会による干渉もなく、
成功を収めましたが、教会の権威による認定があったかどうか、定かでありま
せん。第2弾、エルサレム教会の指導者そのものであるペトロによる異邦人伝道
においては、さすがに聖霊の導きによって、異邦人伝道の3要素、教会の権威
によってなされる、旧約聖書から始めて説き起こされる、イエスのみが宣教さ
れる、が全うされる立派な伝道ができました。が、肝腎の「異邦人クリスチャ
ンに割礼を要求すべきかどうか」という問題については、あいまいなまま、な
いしは、例外を認めた、という程度で何らの解決にも至りませんでした。「時
間がかかるんです」という結論に、一応はご納得いただきつつも、「いつまで
待たねばならないのだろう」と感じられた方もいらっしゃるのではないでしょ
うか。
 しかし、この、異邦人伝道の準備をするにあたっての最後の壁、すなわち異
邦人信徒に割礼を要求する、という問題について、制度上、理論上はともかく、
実際に乗り越えられる、という出来事が思いのほか早く、成し遂げられました。
その出来事についての記録が、本日のテキスト、第3弾「アンティオキア教会
での出来事」であります。
 「ステファノの事件をきっかけにして」とは、8:1にあります、ステファノ
の殺害をきっかけとしてエルサレムに起こった大迫害のことを言います。8:1
では「使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」とあり
ますけれども、実際に散って行った人たちは、そこに止まりませんで、フェニ
キア、キプロス、アンティオキアにまで行って、そして宣教活動を行い、教会
を形成していったのであります。どれくらい遠いか、と言いますと、フェニキ
アは、エルサレムからほぼ真北へ直線距離で400キロほど行った、地中海沿岸
地帯、キプロスは、エルサレムからほぼ北西に600キロほどの距離にある、今
のニュースでも話題になっている、地中海に浮かぶ島、そしてアンティオキア
は、エルサレムから700キロ北、シリアも北部になりますが、シリア州の首都
にして、この地方の中心都市でした。東京からの距離に置き換えてみますと、
エルサレムを逃れて行った人たちは、滋賀県から岡山県に当たる地域にまで出
かけて行って宣教活動を行った、ということです。交通手段の発達している現
代なら日帰り仕事かもしれませんが、当時の感覚としては、地の果てにまで散
らされた、という思いであったに違いありません。「宣教活動をして教会を形
成し」とかなり勇ましい表現を私はいたしましたが、実は、事ならずして都を
去る「世捨て人」感覚であったのではないか、と私は想像いたします。「ユダ
ヤ人以外のだれにも御言葉を語らなかった」というのも、エルサレム教会での
慣習を忠実に守って、というよりは、新たな事業を起こす意欲が全くわかな
かった、ということではないか、と私は推測しています。
 しかし、この逃げて行った人々の中に、その中には、6:1に触れられている、
エルサレム教会の食事係に選出された人々、そのうちステファノとフィリポに
関しては消息が分かっていますが、その他の人々、も含まれていたかもしれま
せん。これらの人々は、逃げて行った信徒たちをきっと励ましたことでしょう。
が、新たな試みをするまでには至らなかったことでしょう。しかし、無名の人
の中に、キプロスやキレネから来た人がいた、というのです。キプロスは先ほ
ど触れたとおりですが、キレネは教会のメンバーが逃げて行った地方よりもっ
ともっと遠く、エルサレムから1400キロほど西、今のリビア地域にある町です。
博多よりもさらに遠く、鹿児島出身の人がいた、というわけです。この人々は
そんな遠くからエルサレムに出てきて教会のメンバーになった人たちですから、
ちっとやそっとの迫害ではめげない。都落ちをした人たちであるにも関わらず、
「ギリシア語を話す人々への語り掛け」という新しい事業に着手した、という
わけであります。

(この項、続く)



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